スマートモブス(smartmobs)〈私〉の愛国心

武田徹が5月15日(日)にアップした「小鳥」は僕自身がぼんやりと思いやっていた諸々と重なる。綿井健陽『リトルバード』を見てはいないのですが、戦争報道でがちんこ勝負して「DAYS japan」を発刊し続けている広河隆一の出版戦略を思うにつけ、戦争のリアルな映像や写真が人々の厭戦気分を醸成して「戦争反対!」っていう大きな流れどころか、《大衆社会は血を怯えるようにならなかったし、好戦的論調は衰えなかった。自らの戦略の妥当性を検討するために、そんな事実を省みる必要は絶対にある。》と武田徹は書いている。
彼は今この日本に“国家意識を伴わないナショナリズム”が覆っていると、本人も認めているように妙な言い方をしているが、僕自身を指呼すればそんなフレームのないナショナリズムが裡にあるなぁ…と納得出来る。例えば、野茂やイチロー、マツイが活躍すると、嬉しくてたまらない。それって、“国家意識を伴わないナショナリズム”かなと思ってしまう。
だけれども石原慎太郎たちが排他主義でがなりたてる四方八方、フレーム(壁)で囲繞して安全、安心のナショナリズムは外の世界が血塗られようと関係ないよ、そんな世界観がみえみえである。勿論、論壇内部においては「天下国家を論じている」というふりは、それはそれなりに自己正当化のための儀式として必要であろう。
そんな頭の痛い難しい大義によるナショナルでなく、《幽霊のような国家主義。香山のプチナショはそのあたりを早くもついていたし、最近では北田の『嗤う日本のナショナリズム』もそうした国家意識なきナショナリズムについて視野に入れている。そして悲劇を国家の枠組みに落とし込んで考えるような展開がないので、血を見せてもしょせん暖簾に腕押しになってしまうのだ。》と武田は分析し、《これは日本だけでなく、おそらく先の反日デモで盛り上がった中国のナショナリズムも同質のものだったのだと思う。ナショナリズムはもはや世界的に質を変えてきているのではないか。その反日デモについては個人的に「嗤うナショナリズム」の分析枠を使ってコラムをひとつ書き、コメントをひとつ出したが、孤軍奮闘気味かなと思いきや、プチナショ元祖の香山が『創』でスマートモブを引いて論じていたのはさすがだと思った。》
このあたりの武田徹香山リカの論考は読んでいないので図書館で探して読んでみたいのですが、武田徹のテキストはどこに掲載されているんだろうか、誰か知っていたら教えて下さい。

しかし、実行力のある反戦映画といえば『リトルバード』より『誰も知らない』の方があるのではないか、との示唆にはぎくっときました。《私的な世界を描いた作品が公共的な価値観へ実は影響力を持ち、公共的な問題設定を謳う作品が、私的な感情の喚起にと縮小してしまう、そんな交差関係の中でメディアと社会の相関を考えてみたいと思ったりしている。》
自分の生き様の文脈と離れたところで声高に戯れてみせる野次馬の公共的な問題設定は単なる説教になって人々を動かさない。一緒に悩み、一緒に生き運動する生き様が見えれば説教節になる余裕がない。まあ、このあたりは僕の自省も多分にある。でも、まるっきり自省しない人がいますね、こういう人が一番困る。
保坂和志の小説『生きる歓び』が広河隆一の月刊誌『DAYS japan』より、戦争を抑止する力があるのではないかという実感がどうしても拭いさることが出来ないのは、写真や映像が単にホンモノだドキュメントだと、そのことだけに寄りかかって説得力を持たせようとすると、どうしても説教臭くなってしまう。「はい、わかりました」で、終わってしまう。強かな政治的言説の吸引力に負けてしまう。言葉と対峙する小説家の恐ろしいところは「作品」で人々を揺り動かすことが出来るということだ。『誰も知らない』はそんな映画でした。人々を動かす。それはやはり、とるにたりない日常の掘り起こしから発信するしかない。戦争を語らないで戦争を語ることが出来る。政治を語らないで政治を語ることが出来る。そんな言葉、映像、写真だからこそ、人々の裡深く、入り込むことが可能なのだと思う。