紙くずの敬意 かわうその祭り

久し振りに汗をかきました。自治会のクリーニング(清掃作戦)でゴミと格闘しました。過日、「風の旅人」の佐伯剛さんがゴミ屋敷に一人暮らす老人の“愛しいゴミ”という視点でカキコしていますが、その想いは痛切に感じます。“紙くずは文化なり”というモチーフで出久根達郎は『かわうその祭り』(朝日新聞)を書いています。かわうそは捕った魚を食べる前に散らかして置く。それが転じてコレクターが獲物を自分の周囲に広げて悦に入ることなり、正岡子規は寝床の周りが本だらけだったから自分の部屋を獺祭書屋と称したと作者は書く。

「バブル時代に、教養が落としめられた。バブルが死んでも、そのままだ。教養主義をせせら笑う輩の横行だ。日本の古典を読む者は、時代遅れ、とけなす。『日本古典文学大系』が一冊たった百円。文庫本が最低五百円の時代に、菊判六百ページの本が、だよ。生涯をこの一冊に注ぎ込んだ研究者への敬意が、百円はないよ」/杉外の声は、涙でうるんできた。
「時代が変わったのは、わかる。しかし、これらの本を見捨てて、いいのかね?救ってやるのが古本屋じゃあないのかね?」
「よそで百円で売っている本を、良書だからと講釈付きで高く売るわけにはいかないだろう。商売にはならないよ」
「確かにその通りだ。だから、おれは今日、あんたに相談にのってもらいたくて来たんだ。昔ながらの古本屋を初めたい。だが、恐らく食えないだろう。どうすればいい?」/「うーん」と、唸る。もとより良い知恵が、あるわけない。/「古本屋が見捨てた本は、この世から確実に消える。しかし古本屋が後生大事すれば、今度は古本屋が死ぬことになる」/「本も人も、共に消えるか。バブルより、むごいじゃないか」
「バブルの大波には、全国の古本屋が踏んばった。一人も地上げ屋に屈しなかった。だけど、教養主義の崩壊には手もなくねじ伏せられた。おれが、いい例だ。だけど、また考え直したんだよ。打ちのめされて、おめおめ白旗をかかげた自分が、みじめになってね。もう一度、ま正面から闘いいどもうと」/「何が直接のきっかけだったの?」/「紙くずだよ」杉外が、うっすらと笑った。/「紙くず?」(313頁)

本日のゴミは沢山出ました。一番多かったのは土砂でした。紙くずは何にもありませんでした。葉っぱも多かったです。葉っぱや土砂では「紙くず文化」とは縁がないですね。でも、ブログのデータは何十年後、何百年後に今はノイズに見えても「紙くず文化」に変わり得る予感がありますね。それを信じたいもんです。
♪“古本屋という「すっとぼけた商売。」 : 退屈男と本と街古本屋という「すっとぼけた商売。」”