バタイユ

 うたかたの日々のソネアキラさんがバタイユ論をアップしましたね、*1

二十世紀文学を十九世紀文学に対するアンチテーゼ、破壊即創造、非文学即文学というマッピングバタイユをソネさんは位置づけている。そのとおりだと思う。それが作品として結実したのは、保坂和志の小説をめぐって(2)を引用すれば、

現代的だと思えばやっぱりチェーホフだったのか、というのが私のいまの思いだが、それより何より志賀直哉の一八八三年生まれというのはカフカと同じなのだ。ついでにいうとジョイスヴァージニア・ウルフが同い年で一歳上の一八八二年生まれで、『特性のない男』のムージルが一八八○年生まれだから、二十世紀後半の文学は一八八〇〜八三年に集中して生まれた四人の小説家をこえられなかったというか、この四人が現代小説としての小説の頂点を極めてしまったために、それ以降の小説家はいよいよ八方塞がりのところで書かざるをえなくなったことになる。ー「新潮」小説をめぐって2004年1月号ー

 勿論、今世紀最大の著作家フーコーに讃えられるバタイユ(1897−1962)もその仲間入りをするだろう。多分、セリーヌ(1894−1961)であれバタイユであれ、そんな八方塞のところで力を尽くして書いたのであろう。
 僕のブログで保坂和志の文学論をエントリーして6/3に森ビルで行われる「1990年代の日本文学 純文学はどう変わったか」について紹介していますが、その1990年代以降は二十世紀文学というより、二十一世紀文学という問題意識があるのではないかと、僕なりに想像しています。
 1990年代の失われた10年が少なくともこの国の文学シーンでそのような八方塞の脱皮の萌芽の土壌になったというマッピングでかような講座を企画したのかどうかわかりませんが、早くその内容を知りたいものです。
 このブログにちょうど言及していますが、僕くの友人が小説原稿を送ってきて、その応接に当たり僕と彼との齟齬を書きましたが、そう言えば、彼の書棚に『ジョルジョ・バタイユ著作集』(二見書房)は全巻揃えでありました。彼の創作行動の中心はソネさんの言う二十世紀文学でしょう。それで、保坂さんのいうようにカフカジョイス、ウルフ、ムージルの四人が頂点を極めてしまって八方塞で、書いてもしょうないというアキラメでなく、まだまだ、現代小説(二十世紀文学)は頂点を極めていなくて、まだまだ、書くことは一杯あるんだという気概があるのでしょう。
 そして、この国でいわゆるJ文学と言われた風俗化された純文学に対して、違和を感じ、1990年代をまさに失われた十年として取るに足らないどうでもいい文学シーンとして無視しているのでしょう。保坂和志の小説は二十一世紀に足跡をつける野心があるのだろうけれど、一体、僕の中で二十世紀文学をどう梗概するのか、その入り口のところで右往左往しているアマチャの読み手としては友人の小説を読んで感想を述べるには荷が重過ぎるというのが本音です。