祈り

 武田徹オンライン日記のスレが「保坂和志」なので、ロムするとお二人には縁があったのですね。下で紹介した森ビルでのインタビューアー永江朗での「保坂和志文学講座」を武田さんも参加したのです。『「隔離」という病い』の担当編集者と保坂和志デビューに関係ある編集者と同じだったというわけ。大体このブログで積極的にお二人に関するカキコをしているが、ぼくの勝手な思い込みの部分があったのですが、縁があったんだと、これで何となくホットしました。(別段、他の人にとっては取るに足らないことですが…)
 それはそうと、内田樹宮台真司の対談を下のコメントのように双風舎さんに実現して欲しい。結構、勝手な思い込みって表に出すと一滴でも伏流となって実現するものです。実現しなくても祈りは残る。これ、舞城王太郎の『好き好き大好き超愛している』の冒頭。

 愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知っている人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんてもちろん僕はかまわない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いに大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。一人一人、知り合えばさらに、個別に愛することができる。僕たちはたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。祈りはそのまま、愛なのだ。
 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほいしいと願う。希望を持つ。
 祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

 いや〜、冒頭から熱い文体です。舞城王太郎は1973年生まれですが、覆面作家なので、性別も何もかもわからないのですが、彼?の単行本はこれで四作品を読んだのですが、これからどんな変貌をするのだろうかと、興味を掻きたてられる。僕の一番好きなのは『熊の場所』『阿修羅ガール』も面白かった。彼?は保坂和志以降の作家として括ること出来るのでしょう。1990年代をモロに青春した世代、保坂和志の講座で永江朗がどんな90年代以降の文学シーンを保坂和志の言葉で引き出したか詳細は、又(多分)、保坂さんのHPでアップされると思いますが、速攻で武田徹日記にアップされるとは、その機動力に改めて感心しました。
 ところで、このブログで「ブルーハーツ」について書いていましたが、お二人にとっても「ブルーハーツ」のアルバムはのっぺりとした日常を積極的に肯定するアルバムで、恐らくそれはオウム以降、同時多発テロ以降、「ブルーハーツ」の世界は説得力を持ちえなくなったのであろう。でも、僕の見るところ、それでも日常に拘り、意識して政治的メッセージを発信しない作家保坂和志と、衆を頼んで署名活動などやらない頑固までに一人ジャーナリストの矜持を保持している武田徹とはどこかに共振する部分があるように僕には思えます。