逆BATON

musical batonなるものが巻き助さん経由で回ってきたのですが、逆走してしまい、あややになってしまいましたが、今度はbook batonがスタートしたみたいです。巻き助さんの選書のコメントはチョイスしたその本の背景が浮かびあがって、思わずレイモンド・カーヴァーの村上春樹訳『ぼくが電話をかけている場所」』を再読してしまいました。本棚にあったのは村上春樹全訳の中央公論社版レイモンド・カーヴァの端本第三巻(大聖堂)でした。この中のパン職人の『ささやかだけれど、役にたつこと』も大好きでした。アル中の煙突掃除職人からジャック・ロンドンも読み返したくなりました。ジャック・ロンドン自伝でストーン著『馬に乗った水夫』(ハヤカワ文庫)は今手元にないのが残念です。確かジャック・ロンドンは放浪時代、パンを請うて、即興の物語を語って聴かせ軒先を訪うたらしいですね、そういう意味ではジャックロンドンもアジールな芸人魂が彼を動かしたとも言える。それは又人々がそのような物語を欲していた。
下の6/18のエントリーで双風亭日乗さんの「壊れた芸能人」について退屈男さんがコメントしています。こちらとも多少なりとも関係してくるのでちょと紹介します。

[……]あれは、これまで出演してきた「マトモ」な番組において、しかし彼らが発してしまっていた妙なオーラに、いつのまにか視聴者が反応し、いまの「壊れた」ヒトシ君を“幻視”していたのではないか。観る者が視るモノ、に敏感である浅草キッドは、それを実際に番組化してしまった。「壊れた」ということでいえば、彼らははじめから「壊れていた」かもしれない。でも、ほんとうは、いつのまにかテレビ視聴者は、なにをみてもそこに「壊れた何か」を視るようになっている、のではないか。キッドがじっさいに壊してみるまでもなく、演る側と観る側は「壊れている」。[……]

芸人はそもそも、壊れた世界に足場を置いているのでしょうね。中沢新一の『アースダイバー』はそんなハレとケについてリフレーンしている。何故、縄文時代なのか、地下なのか、

ぼくたちの世界は、形をもったモノをあまりにたくさんつくりすぎてしまった。ぼくたちにとっては、いまや生産することよりも、分解することのほうが大切になっているのではないだろうか。/そういう分解の作業を、地下の敗者たちが受け持っている。二十世紀は生産の時代だった。そしてたくさん生産するためには、たくさんの資源が必要で、石油のような資源を手にいれるためには、「帝国」はかならず戦争を起こさないとすまないようにできている。ところが、二十一世紀がほんとうに必要としているのは、たくさん生産してたくさん消費するものではなく、たくさん分解し、旺盛に解体作業をおこなってくれる、苔やバクテリアのような存在である。(p70)

先日、自治会の役員から電話があってこの街のゴミ減量作戦の担当ボランティアをやって欲しいと言われました。先日、横浜の中田市長が市のゴミを1/3も減らしたと自画自賛していましたが、しかたがない、苔やバクテリアのような存在になって世のなかのお役に少しでも立つとしましょうか、僕の住んでいる校区は6千人ぐらいです。どれぐらいの量のゴミが出るのでしょうね。まずそれを把握すること、2007年度からレジ袋が有料化するのでしょう。
確かに退屈男さんの言うように人々は「壊れた何か」を視るようになっているのでしょうね。それは、解体作業、溶解に人々を駆り立て幻視さす。
まあ、僕はカーヴァー風に言えば、パン職人は無理でも、煙突掃除は出来そうな気がします。