純文学のエンタティメント化

昨日、ソネアキラさんの『読者レビュー批判批判』のエントリーで保坂和志さんの体験論(イトイ新聞より)をテキスト?にちょいとしたやりとりをして、ネットの苗床理論と澁澤龍彦藤沢周とどう結ぶのかと考えていたのですが、石川忠司の新刊『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)を購入して茶店でめくっていたら、プロローブで藤沢周が出てくる。実は僕は藤沢周はいままで読んだことはなかったのです。澁澤は長年愛読していました。だからこそ、どうして藤沢とリンクするのか、全く検討がつかなかったのです。藤沢体験がないままに石川さん、どんな文脈で論考をすすめるのか興味津々になりました。
著者は今それなりに活況を呈している現代文学の方向性の一つとして、かって主流をなしていた純文学=近代文学の制度を何とか「エンターティメント化」しようとする努力があげられるだろうとして、その謎の解明にチャレンジしているのです。

もちろんここで言う「エンタティメント化」とは、例えばストーリーをたんにミステリー仕立てやSF仕立てにしてみましたとか、親しみやすく流行の「若者言葉」を主に活用し、新たな言文一致体を創出しましたとか、また死や人生や神や宗教などのヘヴィなテーマは古臭いのであえて避けて通った、もしくは比較的ライトな感じであつかってみましたとか、以上そんな阿呆くさい試みや工夫のたぐいは一切合切意味していない。

見取りとして、ヴァルター・ベンヤミンの物語と小説を峻別したメルクマールを使うのです。語られる物語は語り手と聴き手の交歓がありその磁場に支えられ、身体性を通じてここでないどこかへつれていかれる。だが、近代小説は活字(書き言葉)でそれをやらなければならない。そんな孤独の作業から物語とは異なる位相で言葉を発明しなければならない。
そして、そのピースが「内言/内省」「思弁的考察(感想)」「描写」であり、話言葉と同等の力を持つ書き言葉として洗練、昇華されたものが、純文学=近代文学なのです。
でもその圧縮の果てに現代文学は、本来の履歴から言えば「内言」「描写」「思弁的考察」は、活字の無味乾燥から副次的、補完的にストーリーを強化すべきものであったにもかかわらず、それを妨害すらしかねない、かったるいシロモノになっていないか、
著者の言う純文学の「エンターテイメント化」とは、≪物語の豊かさを目指しつつ活字に踏みとどまる方向性であって、必然的に二重の課題を担っている≫のです。
1】活字が話し言葉の豊かさと対抗するために生み出した「内言」「描写」「思弁的考察」を蔑ろにしてはいけない。
2】活字の条件=「運命」を厳密にふまえた上で、なおかつ「内言」のたぐいを果敢に「排除」もしくは馴致・「抑圧」していかなければならない。(単純に物語に回帰してはならない。)
かような綱渡り的なプランが達成できれば、≪純文学はかって物語(話し言葉)に宿っていたようなストレートな痛快さ、明朗な喜び、しみじみとした深さなどを、活字媒体においてもふたたび回復でくるのではないか。≫
その明朗な例証として藤沢周が取り上げられていたのです。そんで、さっそく、図書館で『ブエノスアイレス午前零時』(河出書房新社)を借りました。プロローグで取り上げられているのは『サイゴン・ピックアップ』です。それから、全く名前を存じ上げなかったのですが、宮崎誉子『セーフサイダー』も明朗な例証ですって。