自分の頭で考えたい

 肌寒くなり早く目が覚めました。窓を開けたまま裸で寝ていたのです。まあ、トイレには4、5回も行くのでいつも寝不足なのですが、もう一度寝ようとしても中々寝付かれない、そうすると、又おしっこに行きたくなった。仕方がないPCを開くと、おなじみのお二方が更新アップしていた。
 何と、同じ親記事です。=「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)の教科書(扶桑社製)が茨城県大田原市で採択されようとしているという。=、「はっきりと目が覚めました」。leleleさんは「これはギャグなのでしょうか?」の中で『読売新聞の記事』を紹介している。

 文化面で保坂和志の『小説の自由』についての記事がありましたね。これから、一時間、公園をウォーキングして来ます。
枡野浩一さんがブログで昨日の保坂和志×小島信夫対談レポをしています。保板でも参加した方の色々な感想がアップされています。とても素敵なひとときだったんですね。
保板でカキコされていますが、昨日、小島信夫さんが言ったらしい、
「筋が通らないところに別の筋がある」
「1行読んでも全体と同じ価値がある、というものがある」
「混乱させるとゼロになる。結論はない」などは、含蓄がありますね、
何十年振りに関西に居を構えて落ち着いて見れば、東京を中心とした【ニッポン】と何かが違うと思った。そんな前振りで島田雅彦の『楽しいナショナリズム』に書評を書いていました。二年前です。今の僕の考えと大分ズレがあるなと、苦笑いしました。

 ≪個人と国民が直結していて、あいだに村民とか市民といった中間的な帰属がないと、実体なきナショナリズムがはびこる。何事においても、東京の流儀にケチをつける大阪、京都のローカル・ナショナリズムの方が、市民たちの生活習慣に根ざしている分、ナショナリズムの世界標準に近い。日本は単一の島国ではなく、差異に満ちた群島なのである。群島には無数のナショナリズムの根拠があってしかるべきなのだ。≫(123頁)
 右であると思われている福田和也が「天皇抜きのナショナリズム」を考察しているが、四十年振りに京の町を徘徊すると、東京と比べて、変らなさが目立つ。島田が言うように祇園には元禄時代から、今日まで現役で続いている風俗産業があるし、アメリカで二百万部のベストセラーになった『さゆり』は祇園が舞台だ。おばんざいの食生活も東京とは違う。老舗も和ブランドとして残っているし、震災、戦災にも会わず、東京を中心とした日本国家と別の流れで、平安公家社会から、脈々と京の都が生き続けている気がする。福田の「京都遷幸論」も非現実的ではない。(注:最近、明治国家を南朝を継ぐ王権主義系譜と捉え、象徴天皇制北朝系譜と捉える本が出版された見たいですね)
 居間に中国人の扁額が掲げられている。【滅私奉公 中華民国二八年一月 ○○】と見事な能書である。このアナクロな額は亡き父の形見である。「え! あなたの一家はウヨクなのか、」と誤解されかねないが、オヤジの意志を尊重して、秘密に読み替えている。
 隠れモットーは「奉私奉公」。小熊英二の『民主と愛国』に掲載されているように統制経済の下、「滅私奉公」を声高にアナウンスする官僚、高級軍人達が、その地位を利用して、物資の横流し等、「奉私滅公」で国を敗戦に導いた。そして、為政者のアジテーションによって動員されたのは、多分、「滅私」を素直にか、家族を守るため戦場に赴いた兵士達は、結果として「滅公」で一億総懺悔を余儀なくされる。
 ちょっと、ややこしくなった。
 1)「奉私奉公」(建前でない民主主義の原則)
 2)「奉私滅公」(亡国の徒としての政治屋、官僚屋)
 3)「滅私滅公」(政治無関心層)
 4)「滅私奉公」(パターリズムが有効に作用している共同体、幕藩体制
 一番、質が悪いのは「奉私滅公」型の権力を私物化した輩である。だけど、戦前も戦後も2)項に群がる人々が多いのも事実である。亡きオヤジは、少なくとも、心音は4)の「滅私奉公」型であろう。2・26事件の青年将校達もそうであろう。ならば、2)の「奉私滅公ども」(ならずもの)に対して、手を繋いだ戦い挑むことは可能だ。恐らく、この場合、「私」を巡る考察で「他者を取り込んだ私」か「他者はすべて赤の他人で自意識だけの私」かによって、枝分かれするのであろう。(注:しかし、短絡的な分節化ですね、わかりやすいといえばわかりやすい、でも乱暴だなぁ…)
 2050年になると、世界の人口は百億人で、日本の人口は少子化で何千万人と減少するはず。難民、移民を受け入れざるを得なくなり、天皇の象徴性も揺らぐことが考えられる。
 島田は提言する。≪たとえば、平和憲法の原理を守る役割を天皇が自任したとすると、日本国民でなくとも平和憲法の原理に共感し得る者は、他民族であろうと天皇を支持するであろう。つまり、日本人だけを救うとか日本人だけのために存在するというローカルな一民族専門の王権から、より普遍的な役割、たとえばローマ法王とかチベットダライ・ラマのごとき役割を果たし得るのであれば、これまでと全く違う天皇像が生まれるだろう。≫続く…“こちら”

勿論、公と国家と違う、郷とも違う。徹底した<私>は全ての民族を宗教を越えて、潜行して、深いところで繫がるはずだ。<私>の中に自由が内包していれば、規範が立ち上がる。宮台真司の「主知主義から主意主義へ」がそんな文脈ならば、そんな僕の立ち位置とズレてはいない。しかし、島田さんは相変わらず天皇に萌えていますね。⇒『おことば』