顕名、匿名?

 SlowBirdさんが、東浩紀の日経ネット『匿名は本当に悪か?』を紹介してくれていたので、さっそくロムしました。東さんらしく整理整頓してくれています。柄谷行人の内部(共同体・善・顕名)、外部(市・悪・匿名)の作業仮説でまとめてくれているのですが、僕は成り行きで知らぬ間に顕名と匿名(ハンドルネーム)を使い分けていますね。でも、ネットで知り合ってオフで会い顕名を名乗ったのに、相変わらず、“葉っぱさん”と呼ばれています。おしりに64とつけて葉っぱ虫とは呼んでくれないですね。まあ、それでいいかと思っています。 しかし、ハンドルネームであってもショッピングしたり、詳細な情報を仕入れるために特殊なサイトに入るにIDの認証が必要で、ネットでなくともリアルの場でカード、ハイパーユビキタス社会ですか、現ナマのようなどこの誰が持っても通用出来る徹底した抽象性と違って最終的にきちっと、自己存在証明が担保されている。これって、貨幣のような外部が信用の担保になるのではなくて、個人のIDでしょう。そうなら顕名、実名も単なる記号で共同体の内部に担保された保証に吸収される。僕のようなカードも携帯も持っていない人間は顕名、実名をアナウンスしてもあまり信用がないのでしょうかね…。
 だから、結局、顕名、匿名という表層の問題でなく、<私>が流通の信用担保になるか、<貨幣>になるかでしょうね、このあたりの問題になると、「安全と自由」の問題にも繫がるし、今、法制化が秒読みになっている企業の情報公開の縛りも「信用」が一番、生き残るツールだということでしょうね。「個人情報保護法」の問題にも絡むし、ぼくの頭は未整理です。だから、ゆるゆるのままで、書いてみました。
 数年前、武田徹オンライン日記の掲示板でやりとりしていましたね、このブログのどこかにデータが貼りついているはずです。期間限定で“ネットジャーナリズムは〜”というスレです。これから、出かけますので、あとで探してこちらにアップします。

参照:2003年7/19〜7/30の期間限定で 『武田徹WEBサイト』掲示板を利用して、「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」というテーマーでやりとりしました。僕自身も書き込んでいますので、その当時、どのようなことを考えていたのか、又、みなさんの関心事、問題点は何だったのか、それらを検証する意味で武田徹さんのLOG集の一部を貼り付けて置きます。(5/17記)
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