無痛文明は処方箋

このブログを訪問して下さる方は森岡正博氏の『生命学』HPが縁で知り合った方が多いのです。僕より森岡正博著作を読みこなし、ファンを自称する人もいます。僕が森岡さんに関心を持ったのは無痛文明についてであって、その他のことに関してはよくわからないのが本音です。
掲示板で森岡さん自身がメッセージを発信すればいいのですが、禁欲的なのか、「僕のことを知りたければ本を読んで下さい」ということか、せっかくの掲示板ですが、森岡さん自身はあんまりカキコしない。カキコしても個人的な情報提供です。掲示板は議論のやりとりの場でないのが原則なんでしょう。まあ、そういうわけで、管理人として恣意的判断でカキコを削除すると言明されているので、森岡さんについて書きたいときは自分のブログに書くことにしています。
そういう遊びのない論理的な思考の人なんだと、情で動かない人なんだと、この人は近代の病をモロに受容して、その生き難さを何とか凌ごうと悪戦苦闘して、その処方箋として「無痛文明」という装置を誰よりも欲望した人ではないかと、最近では森岡さんについて考えています。

…論理的に考えると、無痛文明の話には、答えを与えてはいけないのです。もともと無痛文明は処方箋を与える文明なのです。だから、この文明が生み出した問題に対処するには、処方箋を出してはいけないのです。もし「ひきこもり」という問題が、無痛化する社会から生み出されるとするなら、この問題に処方箋を出している奴はインチキだ、ということになります。/「無痛文明」という論はないのです。ー『生命学をひらく』の5章(無痛文明と「ひきこもり」)の97頁にー

 処方箋という意味は「自由主義経済」の表舞台の競争メカニズムの加熱を“無痛文明”という処方箋で鎮める。高度資本主義が洗練された無痛文明化社会を生んだということなんでしょう。でも、それは痛みを宥める冷却装置(無痛化)=鎮めであっても、所詮、処方箋でしかない。そんな無痛文明という注射をされた高度資本主義社会の退屈さ、終わりなき日常(再帰的近代)に少々うんざりして、その処方箋でない(処方箋は表層に過ぎない)、ベタに触れてはならない深層のOSを求めている人もいます。
 でもどうやら、森岡さんはそんな深層には関心がないみたい。無痛文明は単に「自由経済システム」を混乱なく快適に問題解決する処方箋で、無痛文明(処方箋)を越えてというコンセプトはおかしいという文脈なのでしょうか。処方箋の処方箋ってありえないわけで、あくまでその本体(社会システム)を越えてが問題で、さてどうするかなんでしょうが、そのOSに手をつけないで、例えばAという薬を投与してBという副作用が出たら、今度はA´の薬を投与する。そして又B´という副作用を生む……、それを森岡さんはインチキと呼んでいるんでしょう。
 僕は森岡さんの『無痛文明論』を誤読してみたような嫌いがある。この本を無痛文明社会と認識する文明論として読んだのです。しかし、どうもそういうものではなくて、この自由経済社会、資本制社会に対する処方箋、注射、薬でもいいですが、“無痛文明”という療法を行っているよとの処方箋としての装置を描いて見せただけなんでしょう。処方箋だから、“無痛文明”という注射に変わるべき注射があるはずです。多分、僕は“近代の超克”と同じ位相で“無痛文明の超克”という方向性で諸々考えたと思う。それが、どうも誤読みたいだったと、今では思っています。
 近代の様々な問題を“無痛文明”という無痛化装置で問題解決を図っている共通の了解があるみたいですが、それでも解決出来なければ、あとは自分の頭で考え実践しなさいと言うあたりまえのことを『生命学をひらく』(p98)で森岡さんは提示しているのです。
 この社会を無痛文明社会(無痛文明化社会とは違う、近代社会という位相で)と見て、近代の超克のようなことを考えているのではなく、無痛文明という処方箋を提示しているだけです。そしてその処方箋を実践して効果を上げているのが、アメリカであり、日本なのでしょう。そして、大多数の人たちは無痛文明という甘い注射に感謝している。そして他の国々も文明の進歩は、科学の勝利は無痛文明化という装置つくりに精を出す。恐らく森岡さんの戦略は徹底して無痛文明という薬づけになってみるしかないのでしょう。僕の本音はこのあたりのことがよく分からない。僕は煙草を吸いませんが、喫煙者のことはあんまり気にならない。論理的な人間と矛盾に満ちた人間とどちらが好きかと言えば、時に応じてどちらかが、好きになったり、嫌いになったりします。森岡さんは快適な高級ホテルが大好きみたいですが、僕はブルーテントが気になる。銭湯が街中から消えていくのがとても残念です。

 この中には、「友だちがいない」という人もいるでしょう。私も同じです。今でも友だちはいない。誰とも飲みに行かない。話しもしない。休みの日は家でじっとしている。本を読んでいるか、街をぶらぶらしているか。死んだら誰にも発見されず、ミイラになって見つかるのかな、と考えることもあります。
 「友だちなんて必要ない」と思う部分があるのです。友だちってめんどうくさい。用もないのになんで電話してくるのかと思います。大学教授という社会的地位があるといわれる大人でも、こんなもんです。逆に言えば、技さえみにつけてしまえば、やっていけるということです。(p93)

 恐らくこの技は「コミュニケーション力」以外の技なんでしょうね。「コミュニケーション力」がなくても技さえあれば、無痛文明化された社会は何とかやってゆけるように守ってくれる。誰にも発見されず死ぬなんてムズカシイ。そんな社会が形成されつつあることも事実です。 それに対してノンと森岡さんは否定しているわけではない。
 でも、逆に僕は「誰に発見されずに死なんて、何て素晴しい!」、そのことに惹かれる部分がある。寂しいんでなく、歓びの方向性を感じるのです。過日、「住職の部屋」でおしょうさんが「愉しい孤独」のことを書きましたが、文字通りその愉しさが伝わるのに、森岡さんの孤独は全然「愉しさ」が伝わらない。理屈ではないですね。森岡さんの感性と僕とでは違うものを感じているのでしょう。『生命学をひらく』でそのことがよくわかりました。
参照:原田達研究室HPより♪『労働情報プラザ訪問記「コミュニケーション力」』
「結婚できない」『BBS』