安心・安全な無痛文明

 例えば日々送信されるノイズ・メールが90%位あります。まあ、そんなもんかと思っています。ある老思想家が10人の内9人は何らかの心の病に罹っていると書いていたが、ナットク出来ます。勿論、ノイズメールの割合の話とは関係ないのですが、段々ノイズメールが増えていますので、前振りに書きたくなっただけです。ご勘弁を…。
 恐らくその老思想家も9人の勘定に入っているのでしょう。でも、今はその健康な正常なひとりにカウントされているかもしれない。僕自身、ヘンな自信ですがかってはその9人の仲間入りしていたことは間違いない。でも、今はどうだろう、限りなく正常に近い気がします。それは欲望の容量が物凄く小さくなっていることが最大の起因だと思う。
 無痛文明は、文明病とか近代病、現代病とか言った病名ではないのです。ある精神科医が精神病棟は単に箱ものをつくるのではなくて、病棟そのものが治療の実践なんだとどこかで書いていたのを思い出します。病棟はシステムとしての処方箋なんでしょう。そのような意味で無痛文明は処方されている。高度資本主義社会が生み出した病を臨床的に治癒するシステムが無痛文明なのでしょう。巨大な精神病棟が建設されることが文明の進歩ということになっているのでしょう。多分、無痛文明は肌理の細かい設計と気配りによって構築された安心で安全な快適な病棟の理想型なのでしょう。
 昨日、書いた「コミュニケーション力」は処方箋としての「コミュニケーション」なのです。だからこそ、その力のない人は別の処方箋としての技を身につける。森岡さんはその技で大学教授になって何とかやってここまでこれたと書いているのでしょう。とても誠実な物言いです。森岡さんはそんな病に罹っていることを否定はしない。前作の『感じない男』はそう意味で評価はしている。ただ、徹底さに欠けて『仮面の告白』みたいな後味の悪い読後感でした。もっと大事な何かを隠しているという印象を拭い去ることは出来ませんでした。
 しかし、僕の内分泌療法の注射はまさに処方箋としての「無痛文明」そのものです。ムラムラのややこしい欲情は静謐のまんまで花や葉っぱを見て感じるようになったこの身体を善きものとして受け入れている。「終わりなき日常」かもしれな。
 「終わりある日常」を下に書いたイーストウッドのように主意的にいつか決断するかもしれないが、多分、それは「無痛文明」の問題ではなく「社会システム」の問題に突き当たるOSの選択になる。無痛文明はOSではないのです。