天狗の歯軋り

 佐藤優ラスプーチンは天狗なんだ。『国家の罠』を読了しましたが、佐藤優って自負心の高い人ですね。西村尚芳担当検事との間では「国策捜査」なんだという了解はあったわけです。ただ、国策操作って何だという具体的な攻防があったわけで、こんなに国のために仕事をしたのに、運が悪かったとしか言いようがないと、やったことはまちがったとは思っていない。だからと言って冤罪と抗弁しているわけでない。法適用のハードルが「時代のけじめ」をつけるために低く設定されて逮捕されたというわけ。もし2000年までに北方領土問題が解決され日露平和条約が締結される段階が秒読みになっていれば、天狗はカラスとして追放どころか、英雄として遇されたであろうという慙愧の想いが強い。

天狗は世のため人のためによかれと思って事を進め、それは確かに成果をあげるのだが、当時のエリート官僚に認められなかった。以下の物語はその典型だ(『今昔物語』巻20本朝付仏法「天狗を祭る僧、内裏に参りて追わるること」)。その昔、円融天皇が病気になったとき、高位官職についていた僧侶たちが加持祈祷をするのだが、一向に病状が回復しない。奈良の高山に身分は高くないが能力をもった上人がいるとの噂を聞きつけ、宮廷がこの上人に祈祷を依頼する。祈祷は効果を発揮し、天皇は回復する。上人は天皇に感謝なれるが、面子を潰された官僚僧は、一致団結して、この上人を呪い倒す。上人は呪に苦しみ七転八倒し、最後に「私は天狗の手先でした。今回で懲り懲りしました。助けてください」と命乞いをする。上人は投獄される。
 馬場あき子氏はこの物語について「巷の上人の分限は、けっして官僧の権威を越えてはならないのであり、その不文律の掟のなかで、官僧は安んじて修法の儀式と威厳を飾ったのである。(中略)この高山の上人の話は、こうした時代に実力派の巷の上人が、天狗の一党として葬り去られた迫害の説話のようにみられる。天狗もまた鬼と同じように、うっかり心を許して貴顕の門に出入りすると、善意はおおかた迫害をもって報いられようというようなことが結果となりかねなかったのである。」(『鬼の研究』、ちくま文庫、231−232頁)と論評する。
 しかし、困難な外交交渉を遂行するために、日本国家が天狗の力を必要とする状況は今後も生じるであろう。そして、天狗の善意が再び国策捜査によって報いられることもあろう。これについては「運が悪かった」と言って諦めるしかない。それでも誰かが国益のために天狗の機能を果たさなくてはならないのである。少なくとも私はそう考えている。過去の天狗が自らの失敗について記録を残しておけば、未来の天狗はそれを参考にして、少なくとも同じ轍は踏まないであろう。これが私の回想録を執筆するに至った主な動機である。−「あとがき」よりー

 「国益」のリフレインに鼻白みますが、「国」を突き抜けて「公」までリーチが伸びれば革命家・宗教家としてリスペクト出来ますが、政治の場でのゲームプレイヤーのフレームから逸脱していない。でも、「三十一房の隣人」では三十年以上前共産主義革命を目指して大きな事件を起こした死刑囚のストイックな立ち振る舞いについて書いている。他の囚人や看守からも尊敬されているエピソードを綴っている。≪看守が、「面会。お母さんだよ」と言うと、「おふくろ。すぐに行きます」と言って、独房から廊下を小走りに面会会場の方へ向かって行くうれしそうな隣人の後姿を私は一生忘れることはないと思う。≫(p369)と佐藤優は書く。画家になりたかった三井物産の飯野政秀氏に対するエピソードも印象深いものがあり、単なる官僚、情報屋で括れない人間くさい一面が濃厚である。組織人でないのでしょう。獄中で愛読していたのは、『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)、『太平記』(長谷川端訳、新編日本古典文学全集、小学館)、ヘーゲル精神現象学』(樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー)ですって。