江戸湯屋から東京銭湯へ

 このブログに銭湯編のカテゴリーがありますが、ほとんどサボっている。今日、吉見俊哉・若林幹夫編著『東京スタディーズ』を読み始めました。本書はカルチュラル・スタディーズの成果なんですか、ぼくはカルチュラル・スタディーズってよくわからなかったんですが、そうか、こういう仕事をするんだと、自分勝手にナットクしました。
 執筆者たちは『過防備都市』の五十嵐太郎、『嗤う日本の「ナショナリズム」』の北田暁大、『子どもが減って何が悪いか!』の赤川学、『新宿のアジア系外国人』の田嶋淳子、『映画の政治学』の中村秀之、『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』の森川嘉一郎、『南海ホークスがあったころ』の永井良和など、主に社会学の先生方が執筆しているものですが、アカデミックな肩の凝るものではない。東京ガイドブックとしても充分使える。東京の核の部分を地域ごとに、詳細にカルチャースタディーズしているので、むしろガイドブックをめくる時、新しい発見、深い読みをさせてくれるガイドブックを面白く読むためのガイドブックと言ってもいい。そう言えば中沢新一の『アースダイバー』もそうでしたね。
 ところで銭湯でした。都市社会学西澤晃彦のコラム『銭湯の思想』を紹介します。
 東京の銭湯の経営者は新潟県人が多いということです。東京市の人口は明治維新の混乱により江戸期の半分(58万人)になってしまった。しかし、一攫千金、立身出世を夢見た若者たちが江戸の人々が退出したあとに東京へと流入する。1890年代には100万人を越えることになる。行水では満足出来なくなりました。江戸の湯屋は男女混浴で蒸し風呂の柘榴口式風呂です。衛生、防災の思想と混浴禁止の規制で旧来の湯屋は営業出来なくなっていたのです。そこで「近代浴場」たる「銭湯」が誕生したわけ。でも、何故、新潟県人が多かった(八割)のか、まあ、明治政府の殖産興業策が地場産業を破壊したこともあるが、そもそも新潟県の人口が多かったらしい。西澤さんは新潟の人は浄土真宗の信者が多く、真宗は「間引き」を禁じていた、そのことも一因かと書いている。大阪では福井県や石川県出身の銭湯経営者が多い。
 番台に座る人は大体、愛想がよくない。ブックオフやファーストフードみたいに大きな声で「いらっしゃいませ」とは言わない。

…それは、入れ替り立ち替りする多様な流入民を受け止めてきた銭湯の歴史―それはもしかすると都市としての東京の歴史なのかもしれない―に由来している。そこには、深く立ち入らずそっとしておく、しかし見てはいて必要なときには手助けするという、距離に関する思想がある。1980年代以降の「ニューカマー」の外国人が、東京においてひとまず生活を立ち上げることができたのは、銭湯に限らずそうした都市的経験に基づく日常思想に支えられた空間を、まがりなりにも東京が用意したからである。東京都知事が新宿、池袋の名をあげながら声高に排外主義的言説を撒き散らしていたその日にも、池袋の銭湯ではいつものように外国人が湯につかっていた。(62頁)