御節介

 吟遊旅人ブログで森岡正博の『生命学をひらく』のレビューがアップされていたので、長々しいツリーカキコをコメント欄にしてしまった。僕の真意は「無痛文明」そのものと言うより、著者がメッセージを伝える場合の読者との関係についてなのです。そのような問題意識はこちらの過去ログでも少し触れています。小説はメッセージを伝えることだけを目的に編まれるものではないだろう。結果として読者がメッセージ性を読み取るものであっても、メッセージを包含するものであっても、それより大きなものが小説だろう。『無痛文明論』は小説(文学)ではない。あたりまえとおっしゃるかもしれませんが、どうもこの本は小説家の顔がちらちらする。森岡正博は学者です。でも、アカデミックなエリアから越境しようとしている。それが森岡正博の魅力であり、わからなさでもあろう。しかし、基本はメッセージの発信だろう。そのメッセージを明瞭に読者に伝える。そこで語りえない残余があれば、散文として語れば良い。そんな御節介がぼくの中にある。
前日に引き継いで堀江敏幸の『河岸忘日抄』から引用する。

 言葉の意味を子どもに教えてやるときは、あまり具体的な例を出さないほうがいいんです、と枕木さんはファクスのなかでつづけていた。小学生にあがったばかりの息子に、商人ってなにかときかれたぼくの友人の、とても教育熱心な奥さんは、商人っていうのはね、行商人とか、闇商人とか、大道商人とか、そういうふうにつかうのよ、と説明したそうです。なにか物を売ってお金を稼ぐひと、くらいにしておけばいいのに、熟語をつくって、それを解答として差し出したわけですね。その話を聞いて、やっと気づいたんです。ぼくがこのあいだ職場で孤立したのは、六つ、七つの子どもになにかを説明するのに、定義をしないでいきなり例を挙げるような連中が話し合いの席で多数を占めていたからである、と。彼らの回答はけっしてまちがってはいないし、応用例がぼんぼん出てくるくらいだから頭の回転が速い。仕事もできる。俗に言う、有能なひとたちです。それなのに、あるものを安く仕入れてそれより高い値段で売り、差額を懐ろに入れるという前段階の説明をなぜか省いてしまうんですね。省くことがより知的な説明だと思い込んでいる。大切な部分を省略しているのにそれを自覚していないわけで、ここからは極論になりますが、そういう症状がもっともよく当てはまるのは、どうやら「まつりごと」を司っている連中のようなのです。ぼくらの暮らしは大枠をつくってそれを徐々に小さくしていくわけではない。いちばん小さい囲みのなかがこのありさまだから、枠なんてとても大きくできない。あってしかるべき説明の排除を平常化して過程をひとつ飛び越えることが、たとえば個性と勘ちがいされているような世界に生きているんです。これがぼくには怖い。いつかきみと個性について、やりとりしましたね。うろ覚えですが、あのときたしかきみは、分解はできても、もう一度組みたてなおすことのできないものが個性である、と言いました。仰せのとおり、摩訶不思議なものです。ただ、先だってのいざこざでさんざん落ち込んだあと、ぼくはこの年になってようやく悟ったんです。個性的たろうとする者は、要するに凡庸なんだ、と。ほんとうに個性のある者は、個性的たることなど求めようとしない。ぼくら凡人には、いかにも悲しい「真実」です。(p198)