競走馬は喋くれ!野次馬は沈黙…

 かぜたびさんのブログ『ドキュメントの在り方?』を読むと、相変わらずシビアです。ブレがない。

[…]問題の投げかけといっても、政府に問題があるという類の自分が傷つかない狡いものではなく、自分の懐を抉るような厳しい問題が投げかけられるということなのだけど・・・。自分が傷つかない問題提起や、同意は、その場の雰囲気に波風を立てることもないし、誰でも簡単にできてしまう。でもそうした無難な立ち位置で物事が変わるのならば、この世は、とっくの昔によくなっているだろう。[…]

 勿論、そういう覚悟は『風の旅人』という雑誌つくりを通して自分自身に還ってゆく。僕たちはあまりにも野次馬である立ち位置に慣れすぎているのかもしれない。勿論、かぜたびさんは野次馬であるポジションからの発言、床屋政談を全否定しているわけではないだろう。ただ、安全地帯から発信する言説を苦々しく思っているのでしょう。下で書評と「書評」を巡るleleleさんの思いもそういうことでしょう。お二人とも大きな賭金を賭けている。プレイヤーなのです。僕が出来るのは、そのような野次馬であることに対して出来うる限り禁欲的であること、他の方に別段、要請はしないが、もし仮にそのような野次馬言説を声高にするなら、何故、かような発信をするのか、せめてその動機を赤裸々に提示したいものです。その動機が例え俗っぽいものであろうともかまわない。そのような動機が恥ずかしくて言えないなら、出来る限り沈黙を守ろう。まあ、自分自身に対してさまざまな縛りをかけることは、時には必要ですね。これは僕の独白。
最近、つくづく思うことだけれど、「師」であれ、「友人」であれ、尊敬出来る人を身近に持っている人(故人でもいい)は、喋くり巻くっても、書き巻くっても、自意識の悪臭を放たないですね。

 言葉というものは、本来「わたし以外のだれか」が「わたし」の口を通して語るのを「わたし」が聴く、というそういう屈折した経験なわけですよね。自分の言いたいことがあらかじめあって、それを告知するわけじゃない。今自分が何を話しているのか、これから何を話すのかを自分は「知らない」。だから、自分の声に耳を傾ける……というかたちで言葉に対する最初の「敬意」は生まれるんです。そうやって自分自身の口から出てくる言葉の「静けさ」を聴く修練を積むわけですよね。
 だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る時に言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語る時に「うるさい」ものになる。谷川さん(筆者注:谷川俊太郎)のそういう深い知見を理解できる若い人って、ほとんどいませんね。
 悲しいことに、複数の語りのモードをもてとか、敬語の使い方をちゃんと覚えろとか言うと、たいてい「まったく、最近の子どもは失敬きわまりないですな」というふうにお門違いに共感されるか、「ウチダさんも保守反動か」とあっさり括られるかどちらかで。全然違うことを言ってるんだけど。ー内田樹×池上六朗『身体の言い分』p25よりー

参照:2005-08-05 - 双風亭日乗はてな出張所「喋り捲くれ!」