国破れて言葉あり

leleleさんが久し振りに「敗戦記念日に寄せて」を更新アップしている。概略は下記のようなことだと思う。

【A】正の遺産を相続するのであれば、同時に、植民地化や侵略・侵出によってアジア諸国がこうむった負の遺産も、「戦争体験がないから……」といって放棄するのではなく、相続するのが筋だと私は思うわけです
【B】人が集まって組織をつくり、その組織が自家撞着したときに、矛盾に満ちた暴走をはじめる可能性があるというシステムを知らせる。そういったことを、個別具体的な事例を取りあげながら検討することが、結果として、戦争のバカらしさを理解する近道であるような気がします。
【C】人は、ちょっとしたスイッチが入るだけで、いとも簡単に人を殺してしまうし、いじめてしまうし、排除してしまう。それらが拡大再生産していくと、最終的には戦争になってしまったりする。だから、スイッチが入らないように、気をつけるクセをつけようぜ。「みんなで仲良く反戦平和」なんて夢物語は、キッパリと捨て去ろう。そして、自虐史観だ自由史観だと騒いでるオヤジたちなんて、無視していこうぜ。そんな議論のもっともっと手前に、歴史認識を考えるヒントがごろごろしているんだから。

 個別具体的に、戦争について肌身に感じたのは中学生の頃であろう。55年体制が稼動し学校の教師は左翼教師が力を持っていた。そして実際、ある左翼の社会科教師は熱血漢で日々、同僚とやりあい、生徒とやりあい、でも、物凄く人望があった。特攻志願しておめおめ生き残って帰ってきたといつも世情を苦々しく思っている国語教師は時々、理由なく、生徒を校庭に整列させて、ビンタを張った。彼にとって、戦後の日本は憎むべきものなのか、彼の中にどのような想いが鬱積しているのか、子どもたちにとって想像すら出来なかった。ただ、この教師を憎んだ。そしてその教師が右翼を体現していると思った。僕たちは別に確固たる思想教育を受けたわけでない。ただ、教師の授業振りを見て、感じて信頼度を子どもながら査定していたのです。そして、それが、偶々、熱血漢が左翼教師であり、アナーキーで不貞腐れ教師が右なんだなぁと学習したわけです。
当時、この街はやくざな街としても有名でした。僕は柔道をやっていて顧問の数学教師は柔道家として名の知られた人でしたが、政治の問題にはノータッチのスタンスで時々生徒に子どもじみた悪戯をしかけながら、可もなく不可もなく淡々と授業をこなしていました。
この三人の教師の中でやくざな組織の構成員だと噂され、教師、生徒の間で怖れられていた番長でさえ、この左翼教師の話には耳を傾けた。この教師からいつも“体を張っている”という緊張感が伝わってきたからです。恐らく僕らの中学、高校時代に感化されたのは、そのような教師だったのです。「一生懸命」授業をやっていたのが、結果として左翼教師だったのです。彼らの情熱はどこへ行ったのか…。1960年安保へと収斂して、下降し、“お金がすべてよ”と組合もマネーゲームに邁進する。平和も割に合うものかどうかで、利用されたのではないか、憲法九条を堅持することで、世界のマネーゲームに勝ち残ってきた側面も否定できない。憲法九条が金儲けに利用されたとも言える。だからこそ、この60年、まあ、僕の年齢とほぼ一緒ですが、平和をこの国の中で維持できたとも言える。周りの世界が紛争だらけであっても、朝鮮事変、ベトナム戦争、僕の生家も倒産しかかったが、朝鮮事変で元軍港の街そのものが息を吹き返し倒産を免れた。その60年のシステムが金属疲労を起こし、そんな都合のいい解釈憲法九条の欺瞞が露呈して、問われているのだと思う。憲法九条がお金になった、だから、庶民に支持された。憲法九条を固持してこの国が侵略されて廃墟になろうとも、見えない名誉を重んじて、全てを受け入れる。そんな強さからきたものではない。そんな深い倫理の力から要請されたものではない。でも、そんな道徳を体現した国作りがどこかの国で実践されてもいい。小さな政府、小さな国になろうとも、そして、たとえ国破れて山河ありになろうとも、言葉のOSは残るだろう。
参照:http://d.hatena.ne.jp/tatar/20050818