政治を語らないこと

 気分は夏休みなのでしょうか、古いレコードを連日整理しながら懐かしいアーティストの名前が連日出てきている武田徹オンライン日記8/20岡林信康高田渡のことを書いているのですが、レコードの中から70年録音の岡林信康ライブがあって、三島由紀夫自決の年ですね。岡林は勿論、三島に触れ、政治を歌った。

…ゲストで高田渡加川良が出てくるんだけど、高田がまだ23歳で、もしかしたら童貞かも、なんて岡林に紹介されている。23歳の高田渡? 地元住民にとっては亡くなる前ののんだくれ状態の記憶ばかりが強烈なので劇的な違和感。しかし、政治批判色ばりばりの岡林の作品を聞いて改めて思うけれど若い世代は政治を歌わなくなったなぁ。その欠落の意識や、問題意識すら削除されて、これはもう見事なほどの脱政治化だ。オーウェルの新語法に通じるものを感じる。こうした「今」を改めて自覚するためにも古い音源の再生があったほうがいい。個人的な範囲を超えてアーカイブを作ったり、公開出来たりすればいいのにね。

 確かに個人情報保護法著作権法などの問題がクリアされて前の宮台さんの提案の公職選挙法のインターネット対応と呼応して、人びとが暮しの中からあたりまえに政治を語る語法が育つ一助に苗床としてのIT環境が貢献すればいいですね。
 ぴぴさんが、同級生だった馬場靖雄さんの編『反=理論のアクチュアリティー』の紹介をしているが、僕は本質主義と反本質主義の違いがもうひとつわからない。

ローティは、文化左翼どもが哲学の世界で形而上学の理屈をこねていればいいものを、政治に口出しし、しかも哲学が政治より上等なものであるかのように言いふらすことが気に入らないらしい。けれど、北田さんに言わせると、ローティが指し示すところの「文化左翼」なるものがそもそも的はずれであり、文化左翼を批判する基盤たる彼自身の哲学=プラグマティズムもまた《思想なき思想》に他ならないのに、自分のプラグマティズムについてはその危険を顧みることはしない。

 そこから、ぴぴさんは本質主義、反本質主義についてコメントしているのです。まあ、この差異について説明することは一言では無理だと思うのですが、とても気になりますね。通俗的理解では、プラグマティズムが反というより非本質主義で、サルトルデリダラカンなどはバリバリの本質主義に思える。そうではなく、正反対なのです。「本質はない、というのが本質だ」、こういうレトリックにぶっつかると、脳内がぐちゃぐちゃになります。
 どちらにしろ、生ギターで政治を語ることが不自然でなく、哲学者は当然のごとく、文学者も政治を語ったことに疚しさを感じなかったし、語ることそのものに批判されなかったが、いつの間にか、政治を語ることに禁欲的になりましたね。その流れがわからなくもない。
 僕自身、ネットで時々見受けられる“日本”とか“国民”、“われわれは”とか、簡単に実態がないのに普遍言語で語る語法に見聞きすると、左とか右に関係がなく、目や耳を塞ぎたくなります。まだ、一人称で語ってくれれば、そうか、何とかして自分の言葉で語ろうとしているんだと好意を覚えますが、複数形、又は三人称では嫌になります。「葉っぱは…」、「われわれは…」、まだ、「あなたは…」がいい、二人称になると倉橋由美子多和田葉子になりますね。でも、いちど、このブログで二人称で書いてみたいですね。例えば「あなたは何故、意識して政治を語ろうとしないのか」、勿論、このあなたは僕の中の他者です。
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