棚作り/ノベルとライトノベルの違い?

 ◆ポプラビーチの田口久美子さんをロムしていたら、大塚英志さん、ヘルプ!と叫んでいる。「ノベルとライトノベル」の違いなんだって…。ジュンク堂池袋店ではノベルは三階の新書売場に、ライトノベルは地下一階のコミック売場にある。田口さんの何十年の書店員の目から見てもその違いがわからない、頭の中がごちゃごちゃで、大塚さんなら、マッピングしてわかり易く説明してくれるでしょうっていうことです。
 ノベルの代表選手と言えば京極夏彦西尾維新で、地下一階のコミック売場にライトノベルと一緒に置けばより売れるだろうと田口さんは書いているのですが、棚担当者から見れば、それは違うと、その差異を言葉で知りたいとおっしゃっているのです。僕も言葉で知りたいです。しかし、西尾維新の『ネコソギラジカル』の売れ方はコミックの売れ方と似ているみたい。
 こんな書籍市場を見ていると、笙野頼子さんが、ヒステリックになるのも無理はない。いくら、言葉の爆弾を大塚英志さんに投げつけても投げつけても、大塚さんの説得力のある時代分析を補強するだけでしょう。もし、大塚さんに対する批評が効果あるとしたら、静観するのが一番だと思います。笙野頼子さん、
 しかし、kingさんは笙野さんを支えるテクストをネット上にアップしていますね。kingさんのように消費者でない読者の応援があることは心強いですね。ちなみに、ライトノベル作家冲方丁さんとか、まるっきり知りません。念のためkingさんのブログをチェックして笙野頼子テクストを久し振りに覗いたら色々考えさせられます。要は男の文学は終わったかもしれないが、女の文学はまだ、終わっていないということでしょう。一緒にしてもらっては困ると怒っているのです。そんな笙野さんにとってノベルとかライトノベルは文学とは全く別のもので、そんな文学と関係ないところで時評なり、批評、評論をしてくれれば文句を言わない、それなのに、サブカルの胡散臭さを文学の本道みたいな語り口で勝手に純文学を簡単に消費したり、殺したりするのが、腹立たしかったのでしょう。 
 本屋でも、棚分類一つにしたところで、大塚英志×笙野頼子に似た火花?が散っているんですね。
 【参照】その他、笙野頼子テクスト(kingさんより)
http://inthewall.blogtribe.org/entry-06516da69e232f0f3a3f3d632c81236b.html
http://inthewall.blogtribe.org/entry-f353d602c588fb0dbe5115b74a9477e9.html
http://inthewall.blogtribe.org/entry-dbfd2083b235a595375eb7eb2e4c9dce.html
http://inthewall.blogtribe.org/entry-346a365e220667ff9229ff1e852c079c.html
付記:『カルチャー・レヴュー』53号(2005.09.01) : 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版(村田豪『笙野頼子の大傑作「金比羅」の凄さは伝わるか』)
 ◆四谷書房さんから経由なのですが、大阪、京都の書店地図は今秋から、団塊の世代が定年を迎える2007年にかけて大幅に書き換えられるようですね。某書店の人文棚の担当者から「関西の書店の人文棚は、一体どうなっていくのだろう。若いひとたちが刺激しあって面白い棚がいろいろできればいいな」と希望が語られているが人文棚は一朝一夕では棚つくりは困難です。他店の棚を見ながら横軸で勉強も大切かもしれないが、縦軸のクロニクも重要ですね、この担当者は伝説化した今泉棚を意識しているみたいですが、今泉さんはまだ現役で伝説化してはいけません。田口久美子さんも現役なのです。お二人も又、団塊の世代ですね。2007年はもう目の前。
 「ノベルとライトノベル」が益々水ぶくれするのか、「人文棚」が片隅に追いやられ痩せたものになるのか、笙野頼子大塚英志との場外戦みたいな気もしなくはないが、何とか、踏みとどまって2007年以降は「純文学棚」、「人文棚」が曼荼羅で輝いて欲しいものです。勿論、21世紀の新しい装いをまとっていなければ、そんな棚つくりは無理でしょう。Aさん、僕の独断と偏見では、曼荼羅陳列の最初の足跡は純文学ではあの人、人文棚ではこの人と具体的な名前をあげることが出来ますが、多分、Aさんと同じ名前でしょうね。それでいいのです。そこから棚つくりの一歩が始るのです。