去勢の日々からクオリアの日々へ

 双風舎のleleleさんが、仲正昌樹さんの『デリダ遺言の序文』を全文アップする大サービスにまずはご苦労様です。
 ブログのコメント欄にカキコをしようと思いましたが、僕も長くなりそうなので、こちらにエントリーして長々しく取りとめもなく書いてしまいます。本書のキーワードは「生きた言葉」でしょうが、最近、『脳と仮想』小林秀雄賞を受賞したも茂木健一郎さんの「クオリア」なるキーワードとある部分では重なるし、全然位相が違うとも言える。序文を読む限り、仲正さんはエクリチュールを隠蔽したものとして仮想としての「生きた言葉」を措定しているのに茂木さんの「クオリア」は「世界」とつながった実感への大いなる信頼がある。 面白いことに科学者である茂木さんが文藝評論家の小林秀雄賞をもらうことの不思議さもさることながら、文系である仲正さんのあくなき相対化の試みは一見、虚無を抱え込んだ科学者の態度と見えなくはない。去勢の日々を送っている僕は仲正さん的思考法に馴染んでいるが、茂木さんの世界を肯定する確固たる自信に憧れる。
 茂木さんは「太陽」で仲正さんは「月」。井上陽水風に歌えば「ライオン」と「戸惑うペリカン」ですか。
 今、読んでいる加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』で〓章:「批評の酵母はどこにもある」の7項:「科学論文」で♪アラン・ソーカル、ジャン・プリクモンの『「知」の欺瞞ーポストモダン思想における科学の濫用』、♪内田樹の『ためらい倫理学』に収載の『「分かりにくく書くこと」の愉悦について』、♪ジャック・デリダ『声と現象―フッサール現象学における記号の問題への序論』、♪アインシュタインの『相対性理論』(岩波文庫)、そして♪小林秀雄岡潔の『対話 人間の建設』が取り上げられている。

 小林 わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。
 岡 そうなんです。
 小林 そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃたのですね。
 岡 そうなんです。                                       (同前)

 このやりとりをこう受けとってもよいだろう。岡は、数学を「わかる」ということのほうから見直さなければならない時期がきているという。小林はそれなら自分も賛成だと応じる。しかし、このことは逆からいうと、この数学のできごとを足場に、ちょっと待って、むしろ「わかる」「納得する」ってことはどういうことなの、と切り返していくことも可能だということである。これまで人間は「わかる」「納得する」ということを基礎にものごとを考えてきた。しかし、この「わかる」ということ、「ありありと心に感じる」ということこそ、逆に問われなければならないのではないか。「わかる」「ありありと心に感じる」ということ、実感するということをこれ以上遡行できない明証性の最終点、足場、原理のなかの原理、とみなす小林のようなあり方こそ、そこから一切の真理が生まれてくるとする「形而上学」と呼ばれるべきあり方の誤りの始点なのではないか。こういう切り返しが、ここに現れてきうるのである。
 こう考えを進めると、ここにポストモダンデリダの「現前の形而上学」批判の起点が顔をだしていることがわかる。「現前」とは、ありありと現れているという意味である。小林秀雄がここで「感情」といっているものと同義だといってよい。そしてデリダがいうのは、この「ありありと感じる」(=現前)に基礎をおく哲学思想は、もはや無効だと、ということである。デリダがその「現前の形而上学」批判を展開するのは、この対談の二年後の1967年に刊行される『声と現象―フッサール現象学における記号の問題への序論』という著作でのこと。
 批評は「わかる」ことの上に立つのか。「わかる」ことの切断の上に立つのか。難しい問題がまさに、口を開こうとしているのである。(p96)

「現前」といい、「感情」といい、そんな文脈で僕は「クオリア」理解をしています。多分、僕の問いは「クオリア」に基礎を置く思想は無効であるかどうか、有効であることから考えてみたいということです。そういう意味で茂木さんは冒険者です。「わかる」ことを果敢に信じようとする。仲正さんに親近感を覚えるのは「わかる」ことの切断の上に立つ正直さです。僕の中にどちらも同居し、せめぎあっている。