加害の証言

 leleleさんの『インリンのブログと歴史認識』についてロムしていたら、leleleさんは『加害証言の重要性』について書いています。「何故あんなことを起こしてしまったのか?」、そんな加害者の証言は『冷血』と言った作家とジャーナリストの想像力の産物と位置づけれるのか、ニュージャーナリズムの象徴と考えられるトルーマン・カポーティのこの作品は「加害証言」が生々しさを持って訴えてくる。よく考えれば知らぬ間にそんな「加害証言」を耳にしなくなっている。少なくなっている。オウムの麻原は何にも喋らない。池田小の宅間は何を言いたかったのか、被害者の証言はいくらでも目にし、耳に入る。被害の実態を増幅し加害者を憎むことで、「加害者になりたくない」、「戦争は嫌だ!」で問題解決が出来るなら、「加害者の言い分」を封殺して「被害者の言い分」だけを聞けばよい。
 しかし、実際のところ問題解決のキーワードは『加害証言』に隠されているはずだ。ヒロシマ原爆ドームを始めて訪問したエノラゲイに搭乗した元科学者は『加害の故意』は認めるいてけれど、原爆投下によって終戦を早めることが出来、被害の拡大をより少なく防ぎ得たと語る。聞いていて腹立たしかったけれど、ここにいつまで経っても戦争がなくならない秘密の一端を垣間見ることが出来る。「加害の証言は不快である。被害の証言は時として対岸の火事似た消費をされる。」、事件が起きたとき、テレビクールーたちは被害者を取り囲む。そんな風景が毎日のように報道される。事件の真相によりアクセスしようとしたら、加害者の懐に入り込むうざったさが要求されるだろう。
 森達也の「A」におけるオウム報道はそんな肉迫性がある。そんな現場性を足場にするから、思想、観念、政治で汚された視点で見れば、森達也HP保坂展人辻元清美鈴木宗男の応援演説をやりますと言う広報は理解に苦しむと思うが、森達也ドキュメンタリー映画の作り方の姿勢から見れば首尾一貫してブレていない。こういうことの出来る森さんは好きですね。しかし、ドキュメンタリーと言えば森さんを思い出し、ノンフィクションと言えば佐野真一を思い出すのですが、里見甫を主人公にした『阿片王』はもの足りなかった。里見の周辺を初めから終わりまでくるくるまわりながら、追いかけるが、輪が段々迫って来たなと、ちょいと期待を持つと又、遠ざかる。そんな繰り返しで欲求不満が残りました。肝心の里見甫にしろ、女秘書にしろ本書の中心人物の「証言」がないことです。口述された里見の自叙伝の草稿を散らせつかせながら、とうとう、その内容を明かせてもらえない。
それならば、作家的想像力を大幅に加えて、『冷血』のようなニュージャナリズムの手法か、あくまで、フィクションとして伝記として記述するか、そんな選択をすれば読者のひとりとして納得出来たと思う。成程、沢山の情報を収集し事実の羅列はするけれど、佐野真一という作家の顔もはっきりと見えないし、里見甫も遠く霧の中です。最近、映画『ヒトラー』を見たがここに「加害の証言」の一端を見ることが出来たというリアリティがあったのは俳優の演技もさることながら、従来にない「ヒトラー」のアクセスの仕方があったからだと思う。
 佐野真一の『阿片王』はノンフィクションと銘打つことで、禁欲的になり作家の想像力も出来る限り封印して結果として「満州国」の現場性を再現できなかったのではないか、里見の生きた「加害の証言」を聞くことが出来れば兎も角、その核を空洞にしたまま、作家の想像力で埋め合わせないで、事実の羅列だけでは文献資料として多少の価値があるけれど、作品として物足りなかった。
 ◆一体、ノンフィクション/ニュージャーナリズム/ドキュメントの違いはなんだろうか?それは佐野真一沢木耕太郎森達也の現場の扱い方の問題と考察してもいい。沢木は文学臭が益々濃厚の歩みを重ねているし、森は政治に距離を置きながらも政治に関らざるを得ない。でも、佐野は事実の羅列の情報量で作品の量的主張をしようとしているように見える。まあ、「無思想の思想」も一つの矜持であるから、これ以上言いたくないが何か物足りないのです。ただ言えるのは彼らはジャーナリストではない。
 それより、谷川茂インタビューの2001年のネット記事ですが、『加害の証言』とは何かについて色々と考えさせてくれました。⇒『ポル・ポト時代の仕組みを暴く』
 leleleさんは「加害の証言」の重要性を長年考え、これからも考え続けようとしているんだと言うことがよくわかる。
 参照:2005-09-08 - 双風亭日乗はてな出張所