おぞましい階層化社会

 内田さんの「カトリーナのもたらした災禍」をロムすると、アメリカ社会の脆弱さが見えてくる。成熟した市民社会を構築しようとしなかったツケが露呈する。
 市民を支える内在規範が空洞であったということなのか、その最大の疎外要因が
 【A】「他人を押しのけても勝つ者が祝福される」【B】「銃の存在」であろうと、内田さんは言明する。
 僕は過日、万引きの屁理屈万引き問題の応答してをアップした中に万引きを煽る反資本主義運動、世界各国に飛び火がエントリーされている記事を紹介しましたが、僕の書き込みが日本社会で共感される部分があるかもしれないが、アメリカでは何ら力を持ち得ない、「倫理の力」とは何だろうかと、考えてしまう。内田さんの阪神震災直後のホームセンターでのエピソードはこの国では少なくとも「倫理の力」が稼動している。市民感覚が生きている。ブルーシートをタダで女性客にあげた若い店員は内田さんの格好を見て即座に「こういうやつからは金を取ってもいい」と判断して、ガソリンを定価どうりで売った。まっとうな判断だと、コメントしている。アメリカで起きていることは逆の事態なのであろう。
 今、話題になった村上龍の『半島を出よ 上・下』を読み始めたのですが、おぞましい階層社会が日本でもやってくるのであろうかと、この小説の背景のリアリティはよく調べた情報でそれなりに啓発されるのですが、2007年はもうじきですね。2007年をどのように決断するか、既得権益を自らメスを入れて、「働ける人が働き、必要な人がとる」といった了解が内在規範として「倫理の力」になり得なければ、益々アメリカ型の社会になるだろう。それでもいいのであるなら、この本の近未来の日本は別段、荒唐無稽ではない。
 2007年以降、僕はホームレスの一人としてカウントされるかもしれない。ありえる話だと思ってしまう。希望はあるのであろうか、ある。それぞれが既得権益を差し出す勇気。「持たざるもの」が言ってもあんまり説得力がないなぁ、そんなことを言うと、「持てるもの」の資産・知恵が海外に逃げてしまうよ、っていう言葉が聞こえそう。「ここがマイ・カントリー、マイ・ホーム」とハバナの若者はアメリカ娘に恋しても、アメリカに行かないで、革命なったキューバに踏みとどまる。そう、この国が魅力ある国なら、お金のために海外脱出しないだろう。先日、梅田OS劇場で観た映画『ダンシング・ハバナ』は歌って踊るメロドラマですが、少なくともかようなメッセージがありました。