コミュニケーションを誘発するコピペ

 蛇崩川、どぶ録icikinさんのコメント欄でこんな宿題をもらいました。

このところ、ずっと頭にあるのが、コンテンツとコミュニケーションの問題です。たとえば、先のleleleさんと、pipiさんのブログなどで「書評」に関するやりとりとか、内田さんの9月4日のエントリ「剽窃と霊感の間」も、これに関する話題ですね。コミュニケーションを誘発するためのコンテンツの機能を見極めたいというか、ネットを含めたこの問題の展開にとても興味があります。いずれ、また話題にしたいとは、思っているのですが……。そういえば、「読んでいる時間の中にしか小説はない」という保坂さんの小説論も、このテーマを含んでいますね。大きなごちそうを、どう味わったらよいのかって感じです。

 「コピペ」と「私の中の他者」をキーワードに「剽窃/霊感」の断面は何となくわかる。まあ、誤読かもしれないが、でも誤読であるからこそ、文責は内田先生にあるわけでなく、筆者にあるわけでだ。でもひょっとして僕は記憶喪失症になった宇宙人かもしれぬ。そうすれば、すべては宇宙人に回収されて文責は宇宙人にあるのかな。
 そう言えば本屋の頃、常連のお客さんで首を振りながら「今、火星から電波がきているんだ」と言う人がいた。それが一人ではないのです。二、三人いました。上の内田さんのエントリーをロムしながら、頷きました。彼らの思考法は物凄く論理的でブラウン神父探偵で御馴染みのチェスタトン『正統とは何か』で言及される定型に固執する狂気と言ったものがあります。
 過去ログで書いたかもしれませんが、そんな電波受信したMさんが、来店して、理工書の棚の前で土木工事の本を探している。何で?地下鉄を作るんだ。ちょっと待て、誰が?俺、 Mさん、そんな技術があったわけ?バカ、ないから勉強しようと本を探しているんじゃないか、しかし、地下鉄って、すごい金がかかるんだぜ、Mさん、金持っている?金か…。どこにある、そりゃあ、銀行。
 そんなやりとりで、Mさん、会計の棚に移動して今度は銀行簿記の本を捲っている。でも、こうやって書いていると僕がいた本屋さんはお客さんとの閾が低かったですね。そんなMさんでも、時々品出しを手伝ってくれたのですから。まあ、そういう時はランチぐらいご馳走しましたが、不味い不味いと文句を言いながら綺麗に平らげました。
 こんなことを思い出したのは「剽窃」の極北にあるのはMさんのような人かなと思ったからです。そんなMさんに僕が言ったかどうか定かに記憶はないが、Mさんオレ、ひょっとして記憶喪失に陥った火星人かもしれないなぁ、「私の中の他者性」の濃度がMさんの場合は物凄く低く、僕の場合は物凄く高いってことかな、だって、火星人という他者ががっちりと喰いこんでいるんだから、内田先生の言い方は「剽窃者」とは、「私の中の他者」が充分に他者でない人のことであり、「私の中の他者」の未知度が高まると、それは「剽窃」でなく「霊感」と呼ばれるとなる。
 icikinさんの課題に応答して書評について書くのでした。ちょうど、上の内田ブログで加藤典洋の『敗戦後論』の解説文に触れていますが、『僕が批評家になったわけ』を読了したところですが、最終章の「批評の未来」で、内田樹を批評している。
 この本のカバー惹起文を紹介します。

批評が何か、そんなことは知らない。しかしお前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に、百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ。だからすばらしい。

◆批評行為
 加藤典洋の、『僕が批評家になったわけ』は色々と示唆に富む。この「千人印の歩行器」のmixiヴァージョンを暫くアップしたのですが、そこで、さわこさんとコミック談義して色々と思い当たることがありました。ノベル/ライト・ノベル/コミック/コミケ(同人誌)、この一連のつながりをみると、批評行為の介在した二次製作物と言える。それが、狂気に支えられた「剽窃」か、正気に支えられた「霊感」かわからぬが、内田さんの語り口と違って茂木健一郎さんの「クオリア」は、例えばソンダックが(『美についての議論』「良心領界」)で書いた「美しい(Beautiful)」に対する「面白い(Interesting)」の勝利に対する俗物の謀議に歯軋りする時代思潮に対して登場したリリーフ・エースなのかもしれない。文理の壁を越えて「クオリアという魔球」を投げる。
スーザン・ソンダックの孫引きをする。

夕日の写真、それも美しい写真があったとする。洗練された会話のセンスがすこしでもある人なら誰でも、「そう、この写真、面白いじゃない!」という表現を選ぶにちがいない(この夕日、美しいじゃない、ではなく)。

「この夕日、美しい!」と、物自体、世界(世間でない)に直截に向かうのが茂木さんのクオリアであろう。本書で加藤典洋内田樹との違いを強調して彼の「批評とは何か」を考察しているのですが、加藤さんの立ち位置は「世間(世界でない)」、「美しい」の名のもとに「面白い」を断罪してはいけないのではなかろうかと、美しい/面白いの二分法で語るソンダックに異議を申し立てる。「面白い」、「世の中(世間)」という一階の玄関から夕日に向かう批評行為は出発して、やがて「美しい」に連れてゆかれる。それが批評というものだとする。
 ◆「風の旅人 編集便り」で佐伯さんが、 『見る呪力』で、

しかし、人間の見る行為は、たとえば葉っぱ一枚を見ることによっても、人間社会の枠組みという狭い範疇を超えることができる。人間は見ることで社会化されていない時間を手に入れることができる。何を見るかによるが、見ることによって、社会化されていない、より大きな時間を生きることも可能なのだ。

言葉でなく物自体を見ることは「正気」さが要請される。「正気とは何か」、又、上に還りますね、