世界の実相に触れた笑いか恥か

 かって僕はブログ内で【恥についての問題】(2004年5月20日記)大澤真幸著『文明の内なる衝突』の“羞恥について”から引用したのですが、【A】、【B】、【C】のエピソードの内【B】だけを取り上げてみます。

SS隊員は、体調のせいで行軍を遅らせる可能性のある者を銃殺したという。銃殺者は、ときに、まったく行き当たりばったり式に選り分けられた。あるとき、若いイタリア人が選ばれた。そのイタリア人の若者、大学生だというその若者は、選ばれたときに、ひどく赤面した、とアンテルは書いている。そして、その顔の赤さは今でもアンテルの目に焼き付いている、と。確実なことは、この若者は、生き延びることを恥じているわけではない、ということだ。間違いなく、彼は自分が死ななければならないことに関連して、恥じているー『アウシュヴィッツの残りもの』(月曜社、2001、pp137-38)よりー

 このSS隊員の赤面について『読書会』でも話題になりましたが、これはと言う糸口さえ見つけることが出来ませんでした。気にはなっていたのです。それは恐らく、加害者/被害者という二項対立の構図の中では明らかにされない秘密であるということは感じることが出来るのですが、でも言語化出来ない。そんな苛立ちでした。
 昨日、内田樹×田口ランディとの対談をネットで拝見して、このことに関する気づきがあり、もう一度、「恥」について考えてみたくなりました。先日見た映画『いつか読書する日』の岸部一徳の最後の「笑い」にも通底するものがある。多分、そこで感じたものは正邪の閾を越えた世界の実相の生で不気味な混沌が、ある「かたち」で見えた、触れた、匂った、味わった、聴いた、感じた、その手ごたえで「笑い」、疚しさで「恥じらった」のではないか、イタリア人の若者はそんな不気味なものに正対して「選ばれしもの」という反応が表情に出たのではないか、
 内田樹はプリモ・レーヴィがいた強制収容所と捕虜収容所にいたレヴィナスとの体験の違いの質を強調する。自分の運命に対してどういうロジックが働いているのかわからないというのがアウシュヴィッツの体験だとすると、ウイーン条約という明確な枠組みのなかで生きた人間では、おそらくそのときに経験した恐怖の質が違うと思うとおっしゃる。『レヴィナスはおそらくプリモ・レーヴィの絶望がわからない。その絶望がわからないということはわかる。』『レヴィナスは生きて帰れることがわかって収容所にいたわけですから。「死の淵」を見たプリモ・レーヴィとは体験の質が違います。』
 田口さんはレヴィナスに共感出来てもレーヴィに共感できないと告白する。それは罪責感、生き残り感がレヴィナスに近い気がするのです。
 そんな生き残ったものの意味がわからないことに関して、お二人は身近な人の死について語る。
 『そのときに「選ばれた」という感覚はどこかにあって当然なんです。でも、それを「特権」だと考えると、自己嫌悪に陥ってしまう。「特権」ではなく「義務」を負うために選ばれたと言い換える以外に自己嫌悪を逃れる道がないのです。「生き残ってよかった」というために生き残ったのではないと。』
 内田さんはレヴィナスを読んでも救いはない、でも何故、「救いはないのか」という条理は理解出来ると言う。確かに「生きている人間は、全員誰だって何らかのかたちで人を死なせているわけですから。」
 田口さんがカンボジアに行って内紛で生き残った人たちにクメールルージュをどう思うかと質問した件も考えさせられる。leleleさんは意識して加害者の人々にインタビューを試み、そのレポをブログにアップしていましたが、恐らく、被害者/加害者という底の寒山の言う「氷と水は相損なわず」という視点から考えて行かないと見落とすものがあまりにもあり過ぎる。
 武田徹日記(9/26)を読んでいたら、フロムの『個人の生活に意味と秩序とを確実に与えると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受け入れようとする』を引用している。幻視者としての武田さんの危惧がリアリティを持つ今日この頃ですね。
 鶴見俊輔のように「…いま金がないとか、景気が悪いとかいう、そういうんじゃないことを理想に持って、日本の滅亡まで生きたいですね、ほんと。滅亡も楽しいじゃないですか」とは、まだまだ、達観できない僕がいます。