荒れ野の六十年

 まっちゃんさんの『メイド萌え』に感応したのは、メイドでもなく、ロッテの小宮山悟(好きですけれど)でもなく下記の引用のようにまっちゃんさんにとっての恩師の姿です。

…学校では授業をつぶして(社会の授業だったのかなあ…)先生が中国残留孤児の授業をしてくれた。
そういうのって、「何を習った」かは忘れても、やっぱり覚えているものですね。
歴史的事実を学ぶうんぬんじゃない、そういう先生の姿だけがあとあとまで記憶に残っているという。
そのあたりどう考えたらいいんですかねー。
歴史教科書の採択とか、イデオロギー論争みたいなことばっかりしてて、両陣営ともどっちもどっちであんまり意味がないように思えてしまうのは私の意識が低いんでしょうか。

 僕にも印象に残る教師がいました。中学生にとってイデオロギーのことは全くわからなかったが、その教師が熱血漢だと言うのがひしひしと伝わりました。他の教師と暴力沙汰を起こす悪餓鬼でも彼には信頼を置いていた。その熱いハートに感応したわけで、今から考えれば、左翼教師であったかもしれない。でも、そのイデオロギー性によって先生を僕らは評価したわけではない。昭和30年代の話です。痛々しいほど使命感に溢れていた彼をウザッタイとは思わなかった。身体を張って希望を語ることが出来た教師に僕らは他の教師とは違うものを嗅ぎ取っていた。彼の授業には緊張感があった。今でもその先生の姿をありありと思い浮かべることが出来る。
 人を説得出来るとしたら、クールに語る知識ではないだろう。今、小泉首相より熱く語る人がいるのだろうか?例え彼が冷たい心を持っているにしろ、矛盾だらけにしろ、無茶苦茶を言っているにしろ、少なくとも42%の人を魅了していることは真面目にナンデダロウと考えるべきであろう。
 「双風亭日乗ー首相の靖国参拝」を読むと暗澹たる気持ちになるが、参拝すべきでなかった41%の中にいるかも知れない有識者たちの声が消え入りそうな感じがするのは、単に、真摯であればあるほど、熱く語れないというより、ある種過激な小泉首相より過激であることが出来ないむしろ保守的な既得権の壁に隠れているのではないかという疑念が頭をもたげる。
 ハンセン病の時の対応にしろ、今回の衆議院解散にしろ、決断と度胸はある。それが危うい虚無に彩られているロマン性が垣間見えても…。
 leleleさんの言うように国益を考えるなら「参拝しない」が当然だろう。多分それは「プラグマティズムとしての国益」である。しかし、小泉流国益が遠謀術策に張り巡らせたもので、われわれにはうかがい知れないものかもしれないが、少なくとも、参拝支持派の多数は「プラグマティズムとしての国益」とは縁のない人だと言う気がする。それによって脅かせるような既得権もない。失うものはないか、少ない。ただ、日々不安の中に生きている。有識者たちのように不安と戯れるわけにはいかない。楽しむなんてとんでもない。見えない敵といった迷い道はゴメンだ。見える敵が欲しい。輪郭のはっきりした道を歩きたい。そんな迷宮の中で小泉流パフォーマンスは虚勢というにはあまりにも自信満々で、何かをやってくれそうな期待感を持たせてくれる。中国や韓国から攻撃されても小銭を投げて参拝する。
 例えそれによって国益が危うくなろうと知ったことではない。国が滅びても道義が残る。もとより、既得権もなく失うもののない人たちはそんな小泉の大見得は拍手喝采したくなる。
 それに対抗すべきパフォーマンスは小泉さんが鼻白むほど熱く語ることであろう。例えば郵政民営化法案に反対するのはあまりにも生ぬるい法案だ、もっと民間参入がやりやすいように改革しなくてはいけないとか。憲法は勿論改正だ、なぜなら解釈憲法が横行して恣意に脱している、自衛軍なんて言われる隙を作っている。平和憲法を堅持するためには憲法九条をより厳格に改正して自衛隊を海外派遣できないようにするとか。年金も改正して国民年金一本で厚生年金、共済年金、議員年金は廃止、税収入で賄うとか。そして消費税率は26%、定住型の外国人労働者を積極的に受け入れ、英語教育を小学校から行うとか。女性の就業率を大幅に上げ、フリーター、ニート、正社員との調整をはかるとか。既得権をガラガラポンと公平に分配するシステムを構築することが改革でしょう。そのことを小泉さん以上に熱く語る政治家がいなかったということでしょう。
 反小泉がいずれも既得権益を保守する人々という位置に追いやられた構図では負け戦です。何故、小泉以上に過激な人が野党から出なかったのかそれが不思議でした。結局、小泉与党が革新で、野党が保守のイメージの刷り込みになってしまった。靖国問題でも憲法違反の公的参拝をやるという誰も出来ない過激なことをやる。どうしてこうなるのか理解に苦しむ。まあ、本人に訊くのが一番でしょう。どこかの大学祭で靖国参拝について長時間の講演をやらせたら如何でしょうか。ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の四十年」の名演説の向こうを張って喋らせたらいいと思う。小泉流哲学をゆっくり聴きたいのです。