身体の声を聴く

 内田樹さんは『身体の言い分』で書いているように古武道は内田さんの師レヴィナス理解に必要不可欠なもので文武両道の不即不離なものなんです。内田さんの中でそれが同居している。このところ、内田樹さんの聴講生でもあるえこまさんが連日インド旅行のレポートをアップしていますが、本日の『空中浮遊の謎を解く?』は面白かった。身体の堅い僕でも自己流で約半年かけてヨガの倒立が出来るようになりましたが、多分、自分勝手なやり方は気の流れを不自然に曲げてしまうからよくないのかも知れない。えこまさんのような方の指導のもとで段階を追って一段、一段、クリアすべきなんでしょう。ちょうど、住職の部屋がアップされたので『地獄』を厳粛な気持ちで拝読しました。そこにも逆立ちについて書いてありました。

上手に「頑張らない」ためには、「私」を裏側から眺めればよいのです。たとえば逆立ちをするとき、脚の代りに腕で「立とう」とするとなかなかうまくいかないものですが、「地球にぶら下がる(ぶら上がる?)」という感覚がつかめると、案外簡単に立てます。任せるところを任せてしまうのがコツで、落ちようとする足首の下に膝があり、膝の下に腰があり、腰の下に肩があり、肩の下に手がきて、そして手の下に地面があれば、それで立派な逆立ちですから。

 このところ連日、風の旅人さんは大脳新皮質と旧皮質について書いていますが、旧皮質って身体感覚のようなものだろうか、言葉と身体のズレはあらゆる悩みの元凶であろうが、そのせめぎあいが生きることでもあるだろう。でもその身体をピースとして義体として管理しやすいものとしてソネアキラさんのエントリーヴィリリオを読むことで言及している事態が現実味を帯びて痛く感じるのは、結局、僕たちは悩みたくない、苦しみたくない、痛いのは嫌い、そんな「無痛文明」を欲望しているからだろうか、身体を押しつぶすことで、それは又旧皮質と綺麗さっぱりお別れして多分「なしくずしの死」を生きることなんでしょう。それも又、生きることなんだと居直られたら為す術はないのだろうか、
 「金が欲しいんだとあいつは言った」、「金より大事なものがある」何て、そんな説教は言えやしない、したり顔で「自分のやりたいことを見つけなさい」って言えやしない。
 どこかのえらいさんのように「人間を学べ」、何てヌケヌケと言ってしまう厚顔無恥さが腹立たしい。