自衛軍と出版流通

 永江朗の『メディア異人列伝』は1994年から2004年まで永江がインタビューした『噂の真相』に連載された記事から再録を拒否された方を除いて単行本化されたものである。2004年4月をもってその歴史を閉じた『噂の真相』ですが、その掉尾を飾るのが脳梗塞で倒れた辺見庸さんです。辺見は休刊する『噂の真相』と自分を重ねて「悲しい」と形容したと言う。今日の朝刊のヘッドラインに「自衛軍」という言葉が当たり前のように踊っている。

 1930年代のファシズムは、他者のファシズム。いまは我々のファシズム辺見庸はこう言う。30年代は権力が強権発動的にあらわれた。だから対抗勢力も闘いやすかった。敵がよく見えた。いまは違う。権力は動かなくてもいい。/「権力自体がメディア化している。権力に発信能力がある。大新聞と国家権力の境界線が、いまはどこにもない。いま俺たちはどこに撃たれているのか。権力じゃない。メディアにやられている」(中略)/「非暴力と反戦がつながっている?冗談じゃない。反戦反戦的暴力がないとやられないんだよ」/侵略の暴力も抵抗の暴力も一緒くたにしてしまう隠微なメディアのファシズム。そんな中の本誌の休刊は「敵前逃亡みたいなことじゃないか」と、口調は冗談めかして、しかし、目は真剣に、辺見庸は言う。/辺見の『永遠の不服従のために』は、丸山真男の「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向から始る。テーマは改憲問題」という言葉から始る。(403頁)

 辺見の予言どうりにことが進んでいる。そんなところから辺見庸の旧作をbk1の書評でチェックしたら故安原顕の『単独発言』のレビューがありました。これを読むと辺見庸は抵抗の暴力でも使って世直しをしようとする希望を持つヒューマニストであろうけど、安原顕は絶望の塊で、辺見庸と時代認識は同じでも≪ぼくが直観的に辺見庸が嫌いな理由も分かったような気がした。彼は、ぼくとは真反対の考えの持主、作家やジャーナリストによく居がちな典型的なヒューマニストだからである。ぼくは、己自身を含め「人類」はこの地球上で最も劣悪な動物と考えているため、「60億人、すべて死ぬ!」と願ってさえいる。≫と居直っている。そしてそのまんま悲しい咆哮をしながら、ヤスケンライオン丸は旅立ったのですが、本書で永江朗ヤスケンにインタビューしている。十年前の話です。

 そして硬直しきった出版流通システム。日本には取次会社は45社あるが、そのうちトーハンと日販の2社だけで八割以上の市場を占有している。典型的寡占状態である。この寡占化したシステムでトクするのは一ツ橋、音羽と呼ばれる大手出版社だけ。かって安原のいた中公も、このシステムでトクする大手出版社のひとつである。その内部にいた安原は、ここまで現実が酷いとは知らなかったという。/「編集バカですから、知らないんだよ。差別正味についても話には聞いていたけど、ヒトゴトですよ。ここまで詳しくは知らないからさ」/これまた「甘かった」と安原は謙虚に言う。それは同時に、大手出版社の中で編集者を続けてきた自らの半生への自己否定でもある。/日本の出版流通システムの異常さは、これによってトクするのは大手出版社だけなのに、中小零細出版社や書店も、寄らば大樹とばかりに寡占化に加担してきたことである。/安原の「甘かった」は、こうした事態を知らなかっただけでなく、取次を批判していけば、世の中少しは変わると思っていた状況認識にも及ぶ。だが「恥を忍んで、歩く広告搭で」あらゆる意味で取次や出版流通システムの現状を批判しても、著者も読者も、書店も同業者もまるで反応ない。暖簾に腕押し、糠に釘である。/「世の中ちょっとは変わるかもしれないと思った私の驕りもあるけど、世の中全体がカチカチに、保守的になってますね」/かくして、安原顕は「プッツンしました」。しかし、やめたからといって、出版界が良くなるわけでもなければ、面白い本が出るようになるわけでもない。どうするんですか?(79頁)

 そして、ヤスケンbk1レビューサイトの看板になるのですが、ヤスケン亡き後、毎週一度定期的にアップされていた人文棚もなくなるし書評サイトが寂しくなりました。ヤスケンが作ったメタローグもとうとうおかしなことになってしまった。この十年、出版流通は益々保守化と寡占化が加速している。『書店風雲録』で八十年代の書店風景に希望を与えた「リブロ池袋店」は大取次の子会社になってしまった。