言葉とお金

 昨日、毎日新聞で『再販制度の崩壊もー新聞の特殊指定見直し 消費者利益 損なう恐れ』として解説記事が掲載されていましたね。一読して僕にも難解でした。「新聞協会全文」も掲載されているのですが、これもわかりにくい。何か最初に結論ありきなのです。 mixi内に『新聞・本の再販維持制度』に関するコミュニティを立ち上げ、テーマ毎にトピックのスレッドを出しましたが、中々活発な意見交換が出来ません。
 どうしても業界ネタに終始して新聞・出版流通に携わったことのない人には「何故、この問題に熱くなるのか」、理解しがたいであろう。だからコメント参加してくれた人に、「○○さん、私も皆さんのお話むずかしくって、目が読んでくれないんですよ、」っとイヤミ(笑)を言われてしまう。
 「本って食料品、日用品と違って高ければ買わなくて良い。学校で使う教科書は兎も角、新聞はなくても困らないし、テレビ、インターネット、携帯の配信で充分、情報を得ることが出来る。本だって学者の夢に邁進する卵にとって、必要なものかも知れないが、最新の論文、テキストはネットの方が早い、印刷される情報はもう劣化している。古いテキストは新刊本屋で絶版、品切れの状況が珍しくなく、古本屋か図書館で検索することになるだろう。小説家志望の若者だって?書くことに?関心を持つが、?読むことに?関心を持たない人が多い。」という?よしなごと?を考えていたら、『再販』という土俵で綱引きをしていたら、知らぬ間に実体の俵は腐って影も形もなく、見えない線引き内で、どっこい、よいしゃと相撲をとっている業界さんの悲喜劇が見え出しました。
 再販って実際店頭で本を定価より安く売っても罰せられない。このあたりがよく誤解されるのですが、安く売ろうが高く売ろうが問題ないのです。但し、そのような販売行為をしたことを事由にして出版社がその本屋さんと取引中止という(結局、取次が本屋さんに配本停止)という制裁(村八分)をしたら、公取委が乗り出して出版社・取次が市場介入したと罰せられるのです。しかし、新聞や本に関しては、そんな市場介入しても罰せられないですよということです。どうしてかような保護政策がとられたのか、それがどうやら本に関しては業界から積極的に再販維持制度が要請されたわけではないのです。ということは再販維持制度そのものがなくても立派に流通システムは稼動したであろうと容易に想像出来ます。
 ただ、半世紀に渡って構築されたもんだから、日本独特の二大取次寡占システムの内部に再販維持制度ががっちりと組み込まれ、それを壊すと弊害が大きいという戸惑いがあるのも一理ある。結局、再販維持制度廃止に一番、危機感を持っているのは取次でしょう。
 又このように論述すると、「目が読んでくれない」とイヤミを言われそうですので前日の「文明と野蛮性」の文脈で「再販維持制度」について考えていこうと思います。再販維持制度を守るにおいて故江藤淳がよく言ったことですが「日本の文化を守る」というアナウンスでした。
 雑誌『本とコンピュータ/1999年秋号』に『出版社と書店はいかにして消えていくか』(ぱる出版)を上梓した小田光雄が「出版業界のタブーを解体せよ」というコラムを書いて(18頁)いますが、僕はこの本で眼から鱗が落ちる思いでした。読みやすく、隠し事をしないで書かれたもので業界人に留まらず一般読書人にとっても刺激的で啓蒙に満ちたものでした。小田さんが言うように

私も出版社の人間として安全地帯から発言しているわけではないので、出版業界から袋叩きにされ、業界から追放されるのではないかという覚悟で、本書の刊行を決意した。/しかしこの異例とも思われる売れ行きとその波紋は、出版業界がこのままでは壊滅してしまうのではないかという私の強い危機感に対し、出版社の側からばかりでなく、取次や書店の現場でも共鳴してくれている証しであるように思われる。/本書の分析によって、再販制と委託制による出版社・取次・書店という近代出版流通システムはすでに崩壊していることが明らかになった。取次や書店の現場において、ポスト近代出版流通システムへの模索がようやく始ろうとしているのではないだろうか。

 この力作は江藤淳に読んでもらいたかったと小田光雄は【付記】で書いている。偶然にも本書の書評が初めて掲載されたのは『文学界・九月号』の江藤淳・追悼特集号でした。多分、故江藤は本書で内実を知り、その隠蔽された一枚下の現状に絶句して江藤淳としての誠実さで違った言葉を発信したと思う。
 例えば、アメリカ合衆国において国民個々は前日論じたような文明の裏に潜む野蛮性に蓋をした上でアメリカ型民主主義を構築する。しかし、言論はそもそも、その隠蔽されたものにも果敢に言及するからこそ言語であってそうでなければ、単なる記号でしょう。記号であるなら貨幣がもっとも抽象性、普遍性、流通性があり、記号の最たるものでしょう。野蛮性を隠蔽した言葉なんて、所詮、お金の言葉性(記号)に劣るのは自明です。野蛮性を外部に追いやって文化云々の再販維持は酒落臭いのは当然だとしても、隠蔽工作でいかにも言葉が貨幣より価値があるみたいな言い草がぼくにはどうも腹立たしいのです。
 蓋を剥がして地獄も厭わぬ覚悟の言葉を守るというなら、その言葉はお金より偉大かもしれない。そうでなければ、お金と同じ地平なのです。だからニセ札つくりとしての本が大量に生産される。
 そのことを直視した上で再販維持制度の問題を考えたいものです。常日頃、地獄に対峙しないで虚構の「言論の自由」を声高に主張する輩ほど、「正論の言論の自由」を安売りする。言論の自由のないところで商売に徹したビジネスとして本つくり新聞つくりをしているんだと居直ってもらった方がまだ風通しがよい。勿論、そのシーンでは再販維持制度なんて邪魔でしょう。極論すればそういうことです。

出版社と書店はいかにして消えていくか―近代出版流通システムの終焉

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