文明の背後に野蛮が潜んでいる

 高1の理科少女が母親に劇薬のタリウムを飲ませたとして殺人未遂の疑いで逮捕された事件で彼女は男子名でブログを公開して日記に母親の病状変化を画像付きで記録し、今朝もニュースで報道されたが彼女のブログ内容を一部報道からロムすると、その淡々とした描写に驚く。彼女は植物になりたかったらしい。そのことと他者に向かう攻撃性(野蛮性)とどう折り合いをつけようとしていたのか、理科どころか理数音痴の僕には少女の闇を想像すら出来得ないが(勿論、容疑の段階でかようなコメントを書くのは差し障りがあるかもしれないが、あくまで一般論として書いてみます)、自称元理科少年たる武田徹さんが直接的でなくとも間接的に言及しているだろうと武田徹日記をロムしたら、『ヒロシマ後』(11/3)で野蛮性について書いている。

先に引いた仲正の表現が、科学技術という文明についても見事に適合することに驚きに近い印象を覚える。「常識的に考えれば、人が「文明化」し、「人間性」を発展させてゆくにつれて野蛮は衰退して行くということになりそうだ。しかし、アドルノに言わせれば、もともと”野蛮なる自然の一部”であった「人間」という動物がそこからあえて身を引き離し、自らの手で「文明」世界を構築しょうとすれば、必然的に、自分の母体とも言うべき「野蛮なる自然」に対して、それよりも”さらに野蛮な”暴力を行使せざるを得なくなる」

 この仲正昌樹の表現は『逃げられない』(11/1)から来るものです。それも一部コピペします。

安心が強要されているのと同じく、わかりやすさも強要されている感じがする。わかりやすさが単純さだとすれば、現実が複雑な時、それを表すために単純化された表現を選べば、現実と表現の間に非対称性が生じる。その非対称性の傾斜角の隙に「政治」が成立する。
 たとえばサイエンスコミュニケーション講座とかサイエンスライティング講座が増えているようだが、理解の共有を悩むことなく第一義に掲げる講座の担い手は自分たちがいかなる「政治」に関与しているのか自覚しているのだろうか。
 たとえばわかりにくい表現で有名なアドルノという思想家がいる。「アウシュビッツの後で詩を書くのは野蛮である」のフレーズは有名だ。しかし、そのフレーズを「あんな悲惨な事が起こった後に、平然と詩が書けるような輩は野蛮人だ」という意味で解釈するのは間違いだと『不自由論』の中で仲正昌樹は書く。そうではなく、彼が言いたいのは、美しい詩を書くことに象徴される、一見して文明化された振る舞いの背後には実は野蛮が潜んでいたことがアウシュビッツを契機に明らかになったということであり、もともと野蛮人が文明人の顔をして詩を書くような振る舞いの偽善がもはや露呈してしまったということなのだと。

 …その非対称性の傾斜角の隙に「政治」が成立するとしたら、その「政治」が無理やりベットのサイズに合わせる足切りをやって「最も野蛮な国が最も文明化された国」であるという対称性を強引に隠蔽しながら構築するのであろう。科学に対する好奇心が稀薄な僕には「科学を愛するが故にその全てをありのままに見たい」、少年、少女たちの抑え切れない好奇心にコメントする資格がないが、武田さんの言う

ヒロシマの後に科学を分かりやすく語るのがいかに、そしてなぜ野蛮なのか」。そのことを真摯に考え抜くことを経由せずにヒロシマ以後の科学はありえないように思う。

 安心・安全のファシズムが「わかりやすさのファシズム」につながる危うさを検証しないで、国つくり街作りは怖いものがある。適当な不安と適当な危険、適当な違和感、恐れのない共同体は住みたくないですね。そんな安心・安全・わかりやすい共同体は一枚板の下に恐るべき「野蛮性」を隠蔽している。勿論、みんな合意の上でその「野蛮性がないもの」として異質を排除して排他的に仲良く暮すことも可能でしょう。でも、そんな社会ってかってヒトラーが構想したものではなかったか、少なくとも僕は同じ轍を踏みたくない。