分析より志向性、そして「恥」

 昨日、ピーナツを食べ始めたら止まらなくなり腹を壊してしまい、数年ぶりの腹痛に早寝して布団の中でお腹をさすりながらじ〜としていました。だから、昨夜は何にも出来ませんでした。でも今は収まりました。老人達の話ではピーナツは三粒までですって。ザ・ピーナツ、トリオでは終わらないですよ、百粒までいっていないと思いますが、みなさん、ピーナツには気をつけて下さい。
ところで、かぜたびさんが、今日もシンクロすることを書いていたので紹介します。

モノゴトに対する「畏敬の念」が強い人は、「畏敬」を封じ込めることで成立している現代の分断社会では生きにくい。だから、先生達は一生懸命に「畏敬」を無化し、「処世」を教えている。そうした授業を行いながら、「それはそれ、これはこれ」という感じで、モラルを教えなければならないと言う。そうした態度こそに欺瞞がある。なぜなら、畏敬のないモラルなど、社交テクニックにすぎないのであって、敏感な子供はその胡散臭さをすぐに見抜く。しかし、悲しいかな、人を愛することをはじめ、「畏敬」のなかにある生きにくさこそが、生きることの醍醐味なのだ。そうした醍醐味を削除した無味乾燥の不毛砂漠のなかの「処世」とはいったい何であろうか。

 分析の穴掘り作業は志向性がないと、全体が見えないと、延々と続く極刑作業になってしまう。そんな極刑作業でも「生きる意味」を見出して処世してしまう人間ってそれでも人間なんだと言い切った地平で見渡すと、多分見えないところで、それぞれ穴掘り作業をしながら、隠れてそれぞれがそれなりに工夫して、やっとこさ生きているんだろうと想像しますが、ある日あるところで、突然全体に触れたとき、人は赤面するのだろうなぁ、それが多分、「恥」なんではないか、