言葉と狂い(身体)、そして義体 

 屁爆弾さんの『この筆者、悪文につき』を読んでいると、僕の言葉は浮いている度合いが高いなぁと自省してしまう。別に謙遜でも皮肉でもなくそう思うのです。屁爆弾さんの文章は身体性を感じる。僕はどうしてもそれが稀薄になってくる。例えば、ここで屁爆弾さんが表現についてさわこさんが口にされたことに触れていますが、僕はさわこさんの文章に「物質性」(身体性とどう違うのかと問われると困るのですが、もっと硬質な感じですか…)と言うか質感を感じる。それは多分、古典、古美術もおやりになっていらっしゃる方の門前の小僧で、「現物をなるべく見よう」っという姿勢から来るものだと思う。shohojiさんも引用なさっていたが、茂木健一郎クオリア日記『長い日曜日』より、僕も一部コピペします。

◆驚いたのは、高校の現代国語の 現場などでも、そのような形で 自己の感想を「脱構築」するということを 信条として指導する場合があるということで、青嶋先生が小川洋子のエッセイを材料に生徒に書かせた感想文は、 私にはとても素直で良いものに思えたのだが、高木先生を始め会場の多くの人から、「老人を安易に対象化している」 「本当の意味での他者との向き合いがない」 などと強い批判が集まった。
 私は、聴きながら、どんなイデオロギーも 行きすぎると肝心な文学の生命を 殺してしまうことになるのではないかと 違和感を持った。
◆私を呼んでくださった風間誠史さん (相模女子大教授)が、「30年前の文学理論 とは言うけれども、それを解決済みだとして しまったのでは、我々古典をやっている人間の 意味はない」と言われたことに 共感できた。
 どんな立場であれ、解決済みだと言っている人たちは何かを隠蔽しているのでは ないか。
 主観的印象の問題が解決済みだなととは、私は口が裂けても言えない。
 それともう一つ、好きになり、愛するということは、一種のstake holdingの行為であって、そのような有限の立場を引き受ける ことでしか、本当の意味で人生を生きることは できないのではないか。

 その通りだと思う。恐らく僕の言葉には賭金を払ってまで何かのために(それは別段形のあるものでなくても構わない)、捧げると言う切実さが不足しているのだろう。学者や小説家であれ職人であれ、はたまたアーティストであれ、リスペクト出来る所以は平家物語の研究であれ、小説であれ、美味しいトンカツであれ、描くこと、奏すること、そのものが好きで好きで堪らない、「わて、○○さんのこと、好きやねん」から学問だって始る。そんなことは自明だと思っていたのにそうではないとは、絶句しました。そんな切実さがないと僕のような輩を攻撃するのならわかるが、攻撃対象が違うのではないか、居直っているとしか言い様がない。まあ、自分達に刃が帰ってくるから、臆病にも何かを隠蔽しているのでしょう。競技場でプレーしなくともせめて賭金ぐらいは支払って場に参加する。何にも賭けないで観客席から野次馬の囃子だけで人生を生きていると思うのはやはり寂しいよ、
 かぜたびさんが、「環境と文学について」、立教大学の講演レポで「石牟礼道子さんの言葉と狂い」について書いていますが、相手をわかるっていうことは相手とともに「狂う」 部分が多分要請されるのでしょうね、言葉の閾を超える地点に乗り出して、そして言葉に帰る。 そんな耐性のある作業でしか、僕たちは他者と遭遇しないと思う。同じ日の田口ランディさんの講演についてのかぜたびさんのコメント 『相互理解への願いと「理解」』も社会との折り合いのギリギリの模索であろう。

でも本当に大事なことは、そこから先の、「相互理解は難しい、でも、それを何とかしなくてはならない」という領域での自分自身を掘り下げて耐性をつけること。その忍耐力や免疫力こそが本当の救いであり、本当の救いのためには、ランディさんの言葉に寄りかかってしまってはいけない。 ある講演で、「ランディさんはわからないことを、わからないと言う。そこが素晴らしい」という感想があったのだが、「わかりにくい世の中」や「わかりにくい他人」のなかで、「わかったふりをしなくてもいいんだ」という側面は、もちろん大事なことだと思う。しかし、そこにじっと留まっていては、自分の耐性もつかないし、相互理解へのベクトルも開かれない。 そういうことに自覚的なランディさんは、「わからなくてもいい」と言って終わっているのではなくて、「わからない。でも切実にわかりたい。わかろうと努力する自分であり続けたい」と後に続く猛烈な衝動こそを文脈のなかで伝え、その思いの「実践」を共有しようとしている。

屁爆弾さんの≪… 自分が鈍感なら読者も鈍感、自分の規範は他人の規範、自分に面白い本なら他人にも面白く、自分が善意なら誰にでも通じる、というように無成長な自分レベルを軸にしながら読者=仲間、読者=生徒的な想定枠の中でいつまでも安心したがる人の気配に傲慢な焦げ臭いものを嗅ぐ。≫、時として我に返る自己検証も必要と思い、僕も反応して少し書いてしまいました。風の旅人15号に掲載されている保坂和志エッセイ「(死)を語るということ」も言葉の問題につながる。

しかし、身体それ自身は思考している。思考を「言葉による思考」と限定して考えなければ、身体それ自身はあらゆる場面のあらゆる行為において思考している。こんなことを言葉だけを連ねて書いていると紛らわしくなってしょうがないけれど、現実の場面でそのように考え方を変えてみれば、身体それ自身が思考しているということを実感するのは難しいことではない。
 身体それ自身が思考する――そういう時間を積み重ねることによって、〈死〉は生きているこの時間と案外ふつうにつながっていると感じられるのではないか……。

 僕が今、意識して気をつけなければならないと縛りをいれている事は「言葉の浮き度」と「犬の遠吠え」(犬に失礼なので、ルサンチマンの妬みがいいか)、で声高に語ることですね。自分自身がやっていると気がつかないのに他の人がネットなりの書き込みで、そんな哀しい吼えに遭遇するといや〜な感じになります。しかし、身体はどこまで身体なんだろう、ソネアキラさんの義体が発する言葉も多分身体として思考しているんだろう。そこまで届く身体観を考えたいと思う。自然人への回帰なんて最早ありえない、廃墟を受け入れてゼロからスタートするのなら兎も角…。