劇か場か

 シネマ日記のぴぴさんの評価の辛い『犬猫』を観ました。ぴぴさんは1800円を出して劇場で観る映画ではないよとお怒りのようですが、僕はレンタルで半額サービスで借りたので百円ちょとのコストなのでお徳感はありました。最近、映画で波乱万丈のメッセージ過剰、物語性過剰、アクション過剰は途中から退屈、面倒になります。年を食ったということもあるのですが、かって小津安二郎が映画固有の形式に拘泥してプロットで語る映画を嫌ったことを批判されて、「豆腐屋ビーフステーキを作れといっても出来るものじゃない、がんもどきぐらいなら作れるかもしれないが、それが精一杯だ」と有名な台詞がありますが、かような禁欲さが身近なものになったのかもしれません。僕的には好感の持ってた映画でした。
 下で綿矢りさの『You can keep it.』の保坂和志の感想、「彼ら、彼女らが実在しないことが不思議です。」 という紹介をしましたが、この映画の登場人物達にも感情移入出来ない嫌な奴もいましたが、映画って感情移入で観るものでないし、「あ〜ぁ、こんな女の子がいたな」、「こんな野郎がいたなぁ」とリアリティという勿体ぶったものでなく、まさに「彼ら、彼女らが実在しないことが不思議です」に近い手触り感がありました。その実在感を通して世界とつながっている。別に高尚なメッセージがないからと言って世界につながらないものでもない。知的なものが世界へ拡がってゆく唯一の階段ではない。彼、彼女らが等身大で生きているいう実感が投射されれば、その波紋は外に向かって広がる。他者に感応する。世界に響く。僕はこういう映画は嫌いではない。少なくともこけおどしの胡散臭いものがない。
 同日に見た『鬼が来た』もぴぴさんのシネマ日記にアップされている。こちらは『犬猫』と違ってメッセージ性が強い。これも又映画、楽しみました。上でメッセージ過多の映画は嫌いだと言ったのに矛盾しているではないかとお叱りを受けそうですが、恐らく僕の中に別のものだという引き出しがある。こういうことです。『鬼が来た』はむしろ映画でなくとも小説でも劇画でも芝居でもいい別の表現媒体で、ひょっとしてそれ以上のものが出来るのではないかという予感がする。でも、『犬猫』は良くも悪くも映画以外は考えられない。小説で読みたいとは思わない。『鬼が来た』は散文形式で、もっと豊かにメッセージ性も高く、深く書き込むことが出来るし、長編物語で読んでみたい気にさせる。そこの違いだと思う。
 上に映画固有の形式という言葉を使いましたが、小栗康平の『映画を見る眼』にこんな一節がある。

セリフは受け答えであり、その結果がプロットを運ぶことにはなりますが、それは会話の一面でしかありません。日常では、ふつうにそう思っていることです。なぜなら、そのとき私たちは物語を知りません。物語が先にあるわけではないからです。私たちは話をしていて、話したこと、答えたことだけが自分であるとは考えていません。話したことを含めて自分である、そう考えているだけです。つねに自分は残りつづけています。自分が残りつづけている分だけ、画面での目線は相手からわずかにズレて、独立します。これもフレームで世界を切り取ることで成り立つ、映画の独自な形式です。/劇を発展させない、場を主体とする、会話を物語りに従属させない、こうしたことが重なりあって、小津さんの映画の文体が作りあげられています。言語と違って論理としての文法をもたない映画は、それに代るものとして、確固とした形式を所有しようとします。(135頁)

 あくまでこれは小津さんの文体です。井口奈己監督の文体、チアン・ウェン監督と違う映画形式なんでしょう。そのような映画文法が言語と違って普遍性を獲得し難いのは了解してもそれは入り口の問題で大きな物語、大きなテーマであればあるほど説得力を持ちえなくなっている困難な時代に生きているシーンでは「場」に拘泥する小津さんの形式が「がんもどき」ぐらいの実感しかないかもしれないけれど、少なくとも世界へと共振する波紋がある。その波紋の手前にやはり『犬猫』もあるのではないか。

映画を見る眼

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