ネタと「ベタ」そしてベタ

 黒猫房主さんが前日の『揺れる、揺れる、コスプレ治療♪』に応答して僕の文意がもうひとつわからないとおっしゃっているので、ここに追記してみます。黒猫さんのコメント欄に書くと長くなるかもしれないので…。
 眩暈なんですが、さわこさんの貴重な体験によれば、第三次成長期によるホルモンのバランスの崩れではないかと医師より説得力あるコメントを頂戴しましたが(笑い)、ハーバーマスルーマンを読んでいない素人の思いつきみたいな前日アップしたディスクールを学術的な基礎素養を蔵している人から見れば穴だらけのアポリアが目に付き過ぎると思います。でもアポリア(論理的矛盾・解決困難な問題)の彼方に「ベタなもの」があるとしたら、「名付け得ぬもの」として「ベタ」があるでしょう。それが括弧つきでないベタなものだと思う。そのベタは底が抜けたもので廃墟としか言い様のない外部だと思う。そのような外部を視点にして世界解釈をしようとすれば、アナーキーニヒリズムに堕する危険性がある。それでも構わぬ、廃墟の視点から希望が生まれると言った選択肢もあるでしょう。
 前日、書いたことは丁度買ったばかりの『波状言論S改』を読んでいて、63頁〜69頁の節で「ハーバマスとルーマンの逆説」から共振したことでもあるのです。ここで「真理の言葉」、「機能の言葉」という使い方をしていますが、「ベタ」は「真理の言葉」ということでしょう。ルーマンのシステム論では世界の複雑性を縮減する装置が「真理」でしょう。でも、これはあくまでメディアとしての括弧つきの「真理」であり、「ベタ」であり、永久に回転するカオスのことではない。でもやはり生活する上で、生きる上で、「愛」(恋愛システムにおける装置)、「権力」(政治システムにおける装置)、「貨幣」(経済システムにおける装置)、この四つの装置でルーマンのシステム論は動いているのですね。
 そして、東浩紀宮台真司とのやりとりで、宮台はこのルーマンの「真理」も「真理の機能を問題」としてメタレベルに立ち上げると言っています。

東 なるほど。これまで宮台さんのお話は、現代社会では、真理にもとづいてコミュニケーションするよりも、機能性にもとづいたほうが目的を達成しやすい、ということでしたよね。
宮台 「人を見て法を説く」という但し書きはつくけど、基本的にはそうです。
東 となると宮台さんは、さきほどのようなメタレベルでの視点に立ってというより、単純に、目的を達するためのディスカッションの戦略の一つを「機能の言葉」と呼ぶわけですが、これはむしろユルゲン・ハーバーマスの「対話的理性」を思わせませんか。実際、人々に市民社会への参与を求めているわけですよね。
宮台 それには補足が必要です。僕の師匠であるマルクス主義者の廣松渉の話をします。廣松はハーバーマスルーマン論争について、「ルーマンの勝ちだ」と言いました。西欧マルクス主義の流れを汲むフランクフルト学派ハーバーマスではなく、システム論者=保守主義者と言われていたルーマンの勝ちだ、とマルクス主義者の廣松が言ったのです。
 彼はルーマン的なシステム論も後期ヴィトゲンシュタイン的な言語ゲーム論もわかっていました。しかし廣松はヴィトゲンシュタイン的なものを「あえて」嫌った。真理でないからではなく、真理だからこそ嫌った。政治的な効果を考えた場合に問題があるからです。
 彼は「真理の言葉」の機能性をよく知っていました。人は真理を信じたい。普遍妥当性を要求したい。だからこそ廣松は、そういう傾きを前提として、「真理の言葉」としてのマルクス主義理論の政治的効果を機能的に最大化しようとしたのです。共同主観性への働きかけというかたちで普遍妥当性要求を政治的に貫徹しようとしたのです。
 そういう意味では、ハーバーマスルーマン論争において、ハーバーマスルーマンに近いし、廣松もルーマンに近いのです。ハーバーマスもベタに真理を重んじていたのではない。おそらく、ルーマンのように「真理性」を相対化したときの、政治的ダメージの大きさを考えていたのでしょう。(p66)

 前日書いた、戦後民主主義をコスプレ(装置)として理解したのはルーマンの言うメディア(コスプレ)としての「真理」です。眩暈の症状が起きた時、括弧付きの「真理コスプレ」であっても、『信念の魔術』(こんな題名の超ロングセラーの自己啓発書がありますね)でベタに任意の一点を掛替えのない一点として凝視すれば、眩暈が治癒する。そういうことを僕は言いたかったのです。臨床的にアイロニカルな処方箋は効き目がない、常に吐気と眩暈の恐れに曝される。 そのような表層的な治癒でなく「外部としての廃墟」を受け入れる度胸があれば、多分何があっても恐れるに足りないと思うのですが、そんな超俗に僕は到っていない。でも、何故人々は廃墟としての真理を信じようとしないのか、真理は信じたいけれど廃墟は嫌だというコンテクストではあらゆる紛争はなくならないだろう。
★参照:保坂和志『善と悪との差は本当にあるのか?』http://web.soshisha.com/archives/2005/10/post_51.html