ケッタイなケイタイ

かえるくんの目まい

 とうとう携帯電話を使ってみようかと思っています。先日の119番に電話したおり、二階に寝ていた僕は家人は誰もおらず救急隊員がドアを叩いて「開けてくれ!」と絶叫しても「鍵がない」、「傘がない」なら悩まなくてもいいのですが、一人暮らしの一軒家の人は「鍵はどうしているんだろう」と自らに問いを立てても、これが結構難問なんです。
 ある知り合いの高齢者は近所に住まっている自治会の会長に鍵を預かってもらっている。遠くの身内に鍵を預けてもすぐには間に合わない。一番いいのは近所の人に鍵を預けることでしょう。でも、逆に僕が近所の人から鍵を託されると躊躇しますね。余程、濃い信頼関係ないとお互いに鍵の交換って無理でしょう。
 かような安心社会の構築は工学的ツールで自らを囲い込んだり、他者を排除する方向性にシステムを考える選択肢と、「他者を信頼する」、他者に開く方向性こそが社会を安全なものにする選択肢がある。僕は勿論、理念としては『安心社会から信頼社会へ』なのですが、社会は益々工学的セキュリティの方向性にむかっている。『波状言論S改』(p176)で東浩紀がこんな事を言っている。

「セキュリティ」という言葉が、もともと、世界への関心(クーラー)がない(セ)状態を示すのは有名な話ですね。リスクから信頼へというのは、むしろ、リスクがあるからこそ世界への関心が高まるという弁証法的過程を意味していたと思うんです。そういう点では、いまは「リスクから信頼へ」の弁証法が働いていない。リスクがあるのなら、リスクを感じなくなりたい、そういう面倒くさい世界への関心はなくしてしまいたい、という欲求が突出して高まっている。そこに現れるのが、「動物化」だと考えています。それはある意味で前近代的な価値観への回帰とも言えるでしょうが、インフラとなる技術がまったく違うので僕としては「ポストモダン的」と呼びたいですね。ポストモダンの動物たちは、世界なんかみたくないのです。そして、リバタリアン的な自己決定の倫理は、そういう自閉性を強力にサポートする。

 本書の中で北田暁大ともやりとりして前近代的な「身体」とポストモダンの動物というときの「身体」との差異を述べつつその中に挟まれた二十世紀はシンボル(象徴の時代)として十九世紀と二十一世紀とのブリッジであり、本筋は身体であるとの考察があるのですが、そのあたりのことは本書で確かめて下さい。「鍵」の話です。「信頼から鍵」です。「武者小路実篤から谷崎潤一郎」ですっていうことはないか(笑い)。僕は今、そんな信頼性の社会の糊代の一端でもなればと思い、今年自治会の仕事を少しやり始めましたが、一番よく活発に仕事をやっていた役員が突如、任期途中なのに辞任してしまいました。「やる気のある人ほど、嫌になる」っと言うのは仕方がないにしても多少なりとも戦略的に振る舞って欲しかったなあとの述懐です。しかし、党派性のない人で積極的に自治会活動をやろうとする人は段々少なくなってゆくでしょうね。結局、ある偏った組織が自治会を主導することになる。まさに≪リバタリアン的な自己決定の倫理は、そういう自閉性を強力にサポートする。≫との似た状況ですね。
 そんなことで「鍵」を誰に託すかの解決策でなく、緊急、安心、安全の工学的ツールとして携帯電話を購入してみようかと考えるに到ったのです。でも、カメラ付きケイタイは持たない積りです。プリペード方式で使用しようかと思います。友人のYも購入しましたが、カメラ付きは盗撮の嫌疑がかけられる可能性が高くなるのでやめた方がいいよと言ったのに、カメラ付でなくプリペード方式のケイタイは形が腹ぼてで格好が悪いのでと本人に似合わないスマートなカメラ付きケイタイを購入しました。
 僕は腹ぼてでもいいい、格好の悪いカメラのないカード式のケイタイを買おうかと思っています。まだ、購入していませんが…。
 やはり、安心を工学的ツールとして「鍵」、「ケイタイ」に担保するのは際限のないリスクの拡大を招く。より世界の破滅を早める結果となることは容易に想像出来ます。どう考えてたって「他者への信頼」しかないのですが、この道を行く人はひとり減り、ふたり減りと減っていっているように思える。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)