動物と自由

 『波状言論S改』を読了しました。第一章は『脱政治化から再政治化へ』で宮台真司を中心に鈴木謙介東浩紀との鼎談で第二章が『リベラリズム動物化とのあいだで』で北田暁大に鈴木、東がからむ。第三章は『再び「自由」を考える」』で、大澤真幸が登場して鈴木謙介東浩紀が語ります。刺激的で目からウロコの記述にだいぶ若返った読後感です。
 特に最後の第三章の?項「動物は自由か」(p294)は実践的な話題で本書全体の問題点が具体的にピックアップされている。僕的にはここを最初に読んで、それから第一章から読み始めるのが理解が深まる気がしますね。それで、頭からもう一度再読しようかと思っています。

東 そして問題は、繰り返しになりますが、ハーバーマス的=対話的合理主義の実装のほかに、リバタリアニズムと情報技術が結びついた別種の実装があることですね。そのときにデリダ的なラジカルな議論がなんの役に立つのか。
大澤 リバタリアンの実装がアメリカで、ハーバーマスの実装がEUだとすると、デリダは結局ハーバーマスと一緒になるしかない。しかし、僕はその二つ以外の選択肢を出したいわけです。
 ヒントになることを抽象的な水準で言えば、こうなります。デリダハーバーマスも、「他者(性)への寛容」「他者(性)の尊重」を謳いますが、基本的には、他者が、「自己が自己であること」にとって脅威であることが前提になる。無論、厳密には、複雑な問題がありますが、大づかみに言えば、そうです。それに対して、僕としては、自己が自己であるという同一性が、いかなる意味で、直接に、他者(性)―不定で無記の他者―を含んでいるのか、ということを示すことで、困難を打開したいと思っている。
 『演劇人』の連載はそういうことを、具体的な文脈との関連で、考えています。むろん、いくぶん空想的な議論だという印象を与えるでしょう。でも、それは、掛け声だけ、スローガンだけの議論とは、違う。これからも、近代主義リバタリアニズムのほかになにか可能性がある、と思わせる提案をしていくつもりです。インフラを整えてセキュリティを完備していくのでもなく、話のわかる他者とだけ話しあうコスモポリタニズムでもない、第三の道ですね。それは、実践的には、憲法に託していってもいいし、国連に託してもいいし、新しいNPOの提案といくかたちでも考えられると思う。(p326〜7)

 それから、東浩紀はジョン・ロールズの『正義論』の「無知のヴェール」論に言及するわけです。僕は現在ミクシィ会員に登録していますが、それに対する批評として彼はこんな風に語る。

東 僕は、ロールズにしてもノージックにしても、かなりコンテクストを変えて読もうと思っています。ロールズの議論が抽象的で近代的な個人を想定しているというコミュニタリアンの批判は、それはそれで正しいと思う。ただ、無知のヴェールという隠喩そのものは、ロールズの議論の外でも使えるものなのではないか。いま僕たちに必要なのは、まさに、自分とデータベースのあいだに無知のヴェールを挟みこむことなのではないかと思うんですよ。人が人に対して共感する、その基本条件として、無知のヴェール=プロファイリングの排除があるという議論は、いまやきわめて具体的でアクチュアルなのではないか。
 実際、SNSの動きとか見ているとそのことを実感します。みなが個人情報を積極的にさらして、こいつとは友達になりたい、こいつとは友達になりたくない、と事前に選別する。この動きはこれからどんどん精緻になるでしょう。たとえば、名刺もそのうちIC化されるでしょう。そのときに、個人情報を事前に交換しない他者との出会いというのは、実はきわめて珍しくなるかもしれない。そうなってしまうと、「他者の存在が自由の根本的な条件である」と言ったとしても、空疎な言説しかならない。(p330〜1)

 どこの誰ともわからぬ人との出会いは困難なんでしょうか、自由と偶有性は表裏一体でしょう。ファイリングしてデータ保存されたら相手に対する興味がなくなる、そんなもんのはずだったのに、いつのまにかデータのやりとりを介して快楽のレベルで充足する。多分、享楽のレベルを益々遠ざける方向性が進行しているのでしょうが、人ってそれに耐えられるのでしょうか。