師走諸々

kuriyamakouji2005-12-01

 退屈男さん経由ですが、連日報道されている姉歯物件を台湾?の新聞で『豆腐摩天楼?』と書いているらしい。バブルが崩壊して以降、このところ景気は好調で日経平均株価東証15000円に迫る勢いで、為替水準も一ドル=120円に接近と、「脱踊り場」宣言が飛び出す中、今回に事件である。原因の一つに鉄鋼の大幅な値上がりがあるのでしょう。バブル崩壊以降、リストラ、減量経営で設備投資もなされず、デフレ傾向でこのまま日本経済はジリ貧で大不況が到来するのかと思いきや、どうやらデフレから脱却したのでしょう。
 ある人の話では1930年代から、50年から100年のサイクルで一回、大恐慌がやってくるが、その恐慌から一歩手前で生き残った。そんなデフレから脱却出来たのは奇跡である。そしてそれらを支えてたのは“物つくり”の企業群で、中国、インド市場における需要拡大に石油も足らなくなり、それに関連してパイプラインなどのインフラ需要、(ロシアも石油で好調)、兎に角、オーストラリア、ニュージランド、カナダなどの資源国のドルが高い。
 そういう状況で、鉄鋼関連は高騰で鉄骨を一本、二本と抜くことでコストダウンを計る背景があったのではないか、それに郊外の一軒屋より、都心のマンションへとシフトする人達が増え、マンション業界そのものが活気を呈していた。そんな背景などを分析して僕たちは評論できるけど、明日から「経済設計」をやめなさいと宣言出来やしない。そんな覚悟がないから、先月、かぜたびさんが『「虚」と「実」』で書いているように、バルブ時の再現が又もやなされるようになるのだと思う。

今日の社会は、記号の氾濫によって「虚」と「実」の”ねじれ構造”になっている。そこから抜け出るためには、何の保証もないけれど、「言うに言われぬ正しさ」があるだろうと”直観”する方向に足を踏み出し、裸の王様のことを「裸だ!」と言うように、勇気を持って、一歩一歩歩いていくしか他になく、その不確かでおぼつかない「歩み」そのものが、自分にとって、どんなことより確かな「実」であるし、その「歩み」があるからこそ、「手塩にかける愛情」や「言うに言われぬ悲しみ」もわかるのであって、その「わかり、わかり合える」というおぼろげな感覚の中にこそ、「言うに言われぬ正しさ」が、微妙に揺らぎながら、宿っているのだと思う。

その通りなんだと思う。その「言うに言われぬ正しさ」をジャーナリストという立ち位置で発信しようという困難さにチャレンジしている一人として武田徹はオンライン日記で『幽霊のジャーナリズム』宣言?(11/29)をしていますが、武田さんは「音声中心主義」でないジャーナリズムは有り得るかと問題提起しているわけです。

ジャーナリズムとはべたべたな現前至上主義であり、音声中心主義であり、その意味ではポスト構造主義的な立場からすると保守反動も甚だしい。革新的なジャーナリズムであってもそう。というか、その種の問題が視野に入っているジャーナリストなんていない。どんなに理論通と言われているひともそう。なにより幽霊の巣窟である書記言語=エクリチュールの世界の仕事をしているというのに。

 ニュージャーナリズムでない「ニュー」ジャーナリズムであって、いかにしてモダニズムの枠組みを越えるかという挑戦だと思う。そのようなジャーナリズム手法でないと「言うに言われぬ正しさ」にアクセス出来る報道は出来ないと言うことなんでしょう。詳細は多分、次々号の「風の旅人」で拝見できるかもしれない。どんな武田徹の幽霊宣言が聞けるか今から楽しみです。『風の旅人 17号』が発売だから、18号に掲載されるのでしょうか。音声中心主義ってベタベタの「豆腐」か「プリン」みたいですね。甘くて食べやすいところから「プリン」かな(笑)。
 でも音声と言ったからといえ一概に否定出来ない。とみきちさんの『小林秀雄と茂木健一郎と語り』をロムすると、テープ起こしをなさる現場での声による情報量の多さ、特異さに日常的に気づいているとみきちさんなりの問題提議をしている。勿論、武田さんは誰よりも「声」の重要さを認識した上で、「幽霊宣言」をなさるのでしょう。茂木さんと言えば、今月の15日に東京芸大美術解剖学教室で保坂和志さんをゲストに招いて『芸術の自由』というテーマで授業がありますね。部外者でも聴講できるみたいですよ。
 やはり師走は楽しい催しが多いです。大阪梅田芸術劇場で『レ・ミゼラブル』の公演も始ります。
◆年末の総括として「ポプラビーチ」より田口久美子さんの『アメリカが再販制をやめさせたい理由』を読むとこの国の現在が一書店の店頭雑感にもあらわれていますね。ミクシィコミュニティでの『新聞・本の再販維持制度を考える』で田口さんの記事が紹介されたのです。その応答。

田口久美子さんの『アメリカが再販制をやめさせたい理由』ですね、読みました。とても啓発的です。先日見た中国映画の『世界』でもここ北京にもアメリカがあると痛切に感じました。でも、出口は逆に中心に向かって深い穴をあけて底板を外す道筋しかないのでしょうね。「無痛文明」を享受しながら、「無痛文明」を憎む矛盾域で生きる立ち往生を継続しながら、一体、僕たちはどこへ行こうとしているのだろうか、