♪「萌え」/♪「クオリア」

 下で「内在系」、「超越系」のことを宮台真司×北田暁大の『限界の思考』の引用で触れましたが、僕の中にどうも「内在系」=「萌え」&「キャラ」、「超越系」=「クオリア」という脳内整理をしているみたい。東浩紀の「動物化」を「全体性への志向を断念」した断面を肯定的の捉え、それで、いいではないか、生きるうえで過不足なく日常をやり過ごしてもそれでも、生き辛さ、不全感を宗教に超越に補完しないで、何とか補完するツールとして「萌え」、「キャラ」を考える。快楽原則にのっとったものであろうとも、そこには残余としてシミュラークル(偽物)的「内面」が生まれているはずだ。それを「萌え」という現象として理解しようとしている。
 「クオリア」はある面ではわかりやすい。実体に対応した「驚きの」身体応答だと思うからです。言葉で叙述出来得ない断念からそれでも、書くことで「驚き」を現前化する、それが小説家が書くことに耽溺する秘密であろうし、写真家であれ、画家であれ、詩人であれ事情は同じだと思う。そして作品に向かう読者、鑑賞者が掛替えのない一回性の実存が立ち上がる。それが故に普遍に繫がるんだと、そんな理解をした時、その「クオリア」の立ち上がりのシーンと「萌え」シーンはどう違うのか?
 テクスト?東浩紀編著『波状言論S改』 第二章:「リベラリズム動物化のあいだで」

東 […]解釈学的な枠組みで分析できる文化的な現象は、むろんいまでもある。しかし、同時に、解釈とか意味の世界とはまったく無関係に動物的な消費をしてしまう身体があり、その身体を刺激することでメディアを流通する多くの商品や言説が成立しているのだと思うんです。そして、そういった身体は、けっして解釈の連鎖の果てに出てくるものではない。これをいったいどう位置づけたらいいのか、というのは僕の前からの課題なんです。(182頁)

 ここで北田暁大前近代的なカーニヴァレスクな身体(近代の論理で抑圧された香具師的な身体性)を1920ー30年代的な身体として1980ー90年代以降の身体性と分けて考える。どちらの時代に対しても動物化を見るのですが、前者は人文的現象学的身体で後者は工学的身体だと整理する。
 それから、フリードリヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(筑摩書房)のグラモフォンを現実界に、フィルムを想像界に、タイプライターを象徴界に対応させる。キットラーが十九世紀後半に「リアルなものを直接書きこむメディア」、すなわちグラモフォンが登場し、それこそがラカンの三界図式を可能にしたと問題提起をしたとする。僕自身ラカンを読んでいないので、この三界図式もぴ〜んとこない。しかし、現在、音も映像も文字も全てがデジタル・データの表現でしかなくなっている。

東 […]だとすれば、グラモフォン・フィルム・タイプライターのメディアの棲み分けが現実界想像界象徴界の三界図式を派生的に生み出したように、現在のメディア状況は、世界と心の構造についての新しい解釈図式を生み出すことになると思う。そういう点で、キットラーの図式は、正しいがゆえに、いまの状況とはずれてこざるをえない、というのが僕の考えです。
 ではその新しい解釈図式とはなにか。僕はそれを『動物化するポストモダン』や「情報自由論」では「ポストモダンの二層構造」と呼んでいるのですが、要は、一方にはすべてを統合する「リアルなものを書きこむメディア」=コンピュータがあり、他方にはその表現型として音や映画や文字というさまざまなメディアがある、という二項図式が優勢になると思うのです。いまや、音も映像も文字もすべて想像的なものでしかない。その彼方にリアルなデータベースの世界があるのだけど、人間はそこにはけっして到達できない。データベースとシミュラークルの二つの世界があり、そしてそれらは両方とも解釈学的な思考とは関係ない。(186頁) 

 対象aに向かうデータベースは「クオリア」で、シミュラークルの世界が「萌え」と仮設しましたが、こういう理解は間違っていますかね。茂木健一郎は『クオリア降臨』の中で、「一回性」の出来事について語る。意識の中で、他の何ものとも明らかに区別されるものがクオリアとして把握されるのです。僕は「萌え」とは一回性の出来事でなく複製の効くシミュラークルだと思うのです。例えば黒猫房主さんが不思議な猫をブログアップしています。まさにこの猫は偽猫であり、「萌え」得る。科学とは再現出来得ないデータは非科学事実として排除される。でも果たしてそれはノイズであろうか、二度と起こらない、忘れられない体験が、それだからこそ、掛替えのない事実として脳内に刻印されたら、それはリアルなものでしょう。その脳内現象を不可知なものとして近づかない叡智が科学者としての振る舞いかもしれないが、茂木さんはあえてそれを解明しようと、深い森の中に分け入る。東浩紀の言う「データベース」は、そのような不可知なものも含んだものだという理解が僕にはあります。そうでなければ、東浩紀の「データベース」はつまらないものです。
 対象aに向かった時、ある人は「クオリア体験」を、別の人は「萌え」体験を、身体に刻印された時、脳内にどのような現象が起こるのであろうか、全く似た現象が起きながら、やはり違う、そうなら、何がどう違うのであろうか?
 参照:【チャーリーは】東浩紀スレッド51【どこへ消えた?】
bk1にトラバしている僕の過去エントリーで『脳と創造性』に触れていますが、この本が最も茂木さんのクオリアが見えてくるものだと思います。「クオリア」は物凄くベタなもの、「萌え」はメタなもの、こんな言い方はあまりに短絡的ですかねぇ…。
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