一杯いる<私>?

 『本屋さんの宇宙人たち』何て、ヘンなタイトルだなぁと、思わず図書館の新刊棚で見つけたのですが、あ!っと言う間に読みました。現役の本屋さんでアルバイト中の丘辺遊人が漫画家の喜田ジュンのイラストでリアル書店に出入りするお客さんを観察して異星人振りを発揮する“ヘンな人”をピッキングして掲載しているのですが、僕のように書店員体験から見れば、別段珍しい生態ではないし、目新しい情報もない。例えば、ポプラビーチ『書店日記』『書肆アクセス半畳日記』『往来店長日誌』など、店頭でのブログもネットアップされるようになって、今、現在の店頭風景をロムすると、目新しいことが一杯あるのに、作者はどこかのショッピングセンター、百貨店に入っているチェーンの本屋さんなのでしょうか、お客さんに対するスタンスがマニュアル通りですね。
僕の居た本屋もチェーンでしたが、本書に登場するお客様を「カミサマ」と敬しないで、面と向かって注意したものです。学生なら、「おい!一緒に整理しよう、手伝えよ」っていうノリも時としてありました。どちらにしろ、イヤミを言ったりもしました。店員の方も私服で髪の毛を腰まで長く伸ばした浅野忠信のような正社員もいたし、いつも下駄履きで接客するアルバイトもいたし、店内で机の上に原稿用紙を拡げて公私混同をしている「悪魔文学」ならその知識ぶりに某評論家も感心したちょっぴりアブナイ社員は、本書に登場するお客さんの宇宙人もあっけにとられる振る舞いで彼らを我に帰らせてマットウにさせたと思う。アルバイトを含め誰一人「お客様はカミサマ」なんて思わない。お客さんとの境界線が不分明でしたね。時々、お客さんがいつの間にか、アルバイトでもないのに接客をしている場面もありました。包装の手伝い、品だし、お客さんと本の話をしながら、知らぬ間に手を動かしているもんだから手伝ってくれるのです。お客さんとの喧嘩もあったし、逆に僕ではないけれど、お客さんといい関係になった人もいました。結婚した人もいたと思う(笑い)。
 『本屋さんの宇宙人たち』で苛立ったのは書店員とお客さんとのコミュニケートがないことです。これじゃあ、ネット書店の方が便利がよくて、何らリアル書店の特色が生かされていない。リアル書店の良さはリアルな場で会話が出来ることです。今のリアル書店ではそんな会話を楽しむ余裕がないですね。僕はことさら店員に話しかけるようにしているのです。 最近、駅前のスタバに寄って珈琲をオーダーしたら、話の流れで女の子が「寒くなりましたね、気をつけて下さい」って言ってくれたので、「あれ!、何か病院に来たみたい、スタバ・ホスピタルだね」と、返して少し話が発展しましたが、ネットではこういう会話を楽しむことが出来ない。僕はリアルな店で買い物をするのが好きです。それはかようなやりとりが出来ることもその一因です。別に昔ながらの街の商店でなくとも、チェーン店でもそんなマニュアル通りでない接客が出来る子もいます。
参照:den_en relax 読書日記 本屋さんの仕事
 先日、やっとケイタイを購入しましたが、プリペードでカメラ機能のないやつ、そのときもスタッフと面白いやりとりをしました。この件はスローバードさんのエントリーにアップしています。
 寂しい関係性は別段当たり前でなくて、ネットのノリでリアルの場でもパフォームすればいいのに、それをしない人が多いのですかね。
 又、『限界の思考』から宮台真司の「人間であり続けることは、どういうことなのか」から引用させて下さい。

 […]インターネットのオフ会に出ると、二十代前半以下の出席者と、もっと年長の出席者とのあいだに大きな違いがあります。
 何が違うのか。二十代前半以下の連中は、ネット上のアクティビティーからイメージされる人格と、実際にオフ会で対面して話をしてみてイメージされる人格とのあいだの、乖離が大きすぎるのです。ネットでは居丈高に攻撃的だったり、エラそうに場を仕切っていた連中が、オフ会の円卓ではまともにしゃべれないという「社会的弱者ぶり」を露呈させるわけです。(p247) 

 僕はオフ会をやってみて、回数と人数は少ないですが、ネットキャラそのままでしたね。だから全然、違和感がありませんでした。十代から六十代(僕のこと)まで、ネットキャラが強調されたリアルキャラでした。生(ナマ)の方が想像していたよりもっと本人に近かったという感想です。まあ、宮台さんの例証が普通なんでしょうね。本書で宮台さんは七十年代に病気じゃあないのに「ヘンな人」が目立つようになって人格障害というカテゴリーが生まれたとする。*1
 病気なら原因を取り除けば治ると考えられる。でも人格障害の場合、原因を除去すれば治るとは考えられない。人格障害は生育環境の適応だと考えられるのです。

 過剰流動的な社会環境では情報処理負荷が高まります。単一のCPUで高い情報処理負荷に耐えるのは負担が重い。そこで情報処理を複数のCPUに分割し、互いに緩い関係しか持たせないようにすれば、情報処理能力は飛躍的に上昇します。すなわち「場に応じて人格が切り替わる」生き方は、過剰流動的な社会環境に対する環境適応だと考えられます。
 その証拠に、ここ五年ほどの企業研修プログラムや就職活動マニュアルを見ると、ほぼ例外なく「解離の勧め」になっています。かっての研修は、理想の世界における理想の自分をイメージし、それを現実の世界へトランスポートすることを推奨しました。でも現実は理想と違う。現実にさらされている期間が延びれば、やがて理想は風化してしまう。
 今日ではそうした自己管理は推奨されません。かわりに、場に応じた最適なキャラクターを演じるべく、場とキャラクターの組のヴァリエーションを、引き出しにたくさん用意しておくことが推奨されます。この場ではショーン・ペン、あの場ではブルース・ウィリス、といった具合です。そこでは理想をいう概念のかわりに、条件つき最適化の概念が機能しています。(p249)

 多分、姉歯問題のような様々なシステムの無責任体質も、この解離的人格と無縁ではないでしょう。常に逃げ場が用意されている。
 宮台は辛辣に言う。「あの種の場にいる自分は、普段の自分とは違う」といったエクスキューズが内面化されているわけですからね。

本屋さんの宇宙人たち

本屋さんの宇宙人たち

透明な存在の不透明な悪意

透明な存在の不透明な悪意

*1:宮台真司著『透明な存在の不透明な悪意』春秋社