ささやかな「善のスパイラル」

蛇崩川

 『ささやかだけれど、役にたつこと』はレイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)のとても素敵な短篇で登場するパン屋のオヤジは忘れ難いが、pataさんがカレー屋のオヤジさんのことを書いている。東横線の祐天寺にある『ナイアガラ』という地元のカレー屋で、pataさんの『祐天寺散歩』の記事も懐かしく、古本屋をやっている知人の顔を思い出したりしました。店主の接客態度はpataさんの二十年前の高校生時代に、カレーを食いに寄ってもガキ相手に「あ、お客さん、また、よくいらっしゃいました」とひと言かけてれる。こんな店は他に知らなかったな、当時。大事にされれば、行儀よく喰って、また来る。そんな善のスパライルが「ナイアガラ」をここまで立派な店にしたのだろうと思うと述懐している。
 pataさんの『善のスパイラル』という表現が絶妙でシンクロしたのです。祐天寺なら蛇崩川、どぶ録のicikinさんだと、この記事を紹介したら、何と偶然にも二十年後のカレー屋のオヤジさんに今朝、挨拶しましたと、ブログエントリーしている。
 まさに『シンクロのスパイラル』です。あまりにも、見事に一致したので、icikinさんは『偶然?』と疑念を示していますが、何の仕掛けもございません。
 僕もここのカレーを食べたくなりました。今度、と言っても、もう東京に行く用事がないので、実現は薄ですが、何とか行ってみたいですね。そして、祐天寺、中目黒あたりでオフ会をするって、いいですね。

 葉っぱ64さんから、前日のエントリにコメントをいただいていた。祐天寺のカレー店「ナイアガラ」などを紹介したpataさんの記事を教えてくださったのだが、実は、本当に今しがた、「ナイアガラ」の前を通り、掃除していたおじさん(名前は存知上げない)と挨拶をかわしたばかりだった。いつもは蛇崩川沿いを歩くのだけれど、今日は祐天寺に初詣をかねて歩いたので、たまたま、店の前を通ったというわけだ。[中略]pataさんも書いてらっしゃるが、その名物たるゆえんは、店やカレーというよりも、このおじさんその人の、人柄にこそある。あちらは、私の顔など知るよしもないのだが、こちらは存じ上げているので、顔を合わせるたびに「おはようございます」と挨拶をする。というか、おじさんを見ると挨拶をせずにはいられないのだ。すると彼は、あの白い機関士?の制服と制帽で、背筋を伸ばし、笑顔で「おはようございます、いってらっしゃい」と挨拶を返してくれる。少し裏手に、前の店を兼ねていた彼の自宅があるのだが、そこでも水を打ったりしてきれいに掃除をしているのを見かけ、挨拶を交わす。こうするだけで、何か一日得をした気分になるのだから、ありがたい。 
 所作がもつ美しさとは、身体の中に折りたたまれた歴史や文化そのものなんだなあと、つくづく思う。ナイアガラのおじさんも、そんな美しい所作を持つ一人だ。彼がいることで、祐天寺の街はどれほど救われていることか。ナイアガラの店の前を通る高校生たちも、大人になって、何かの機会に彼の姿を思い出すだろう。教育とは、じつは、そういうものだと思うのだ。

 過日、このエントリーで書いた『教養について』も別段難しいことではなくて、『品性の問題』だと思う。僕の知人でヤンキーであってもトテモ太刀打ち出来ない品性を持っていた若者がいたし、博識自慢な自称文化人が『品性下劣』であったりする。保坂和志さんのweb草思のエッセイ『教養の力』もそういう文脈で読まなくてはいけないんだろうなぁ…。
 ところで、保坂さんはこのエッセイに“監視型権力”について書いている。丁度、自治会のNさんと正月の初仕事(訃報が発生したのです)したおり、恐るべき『google earth』の監視衛星の話になり、Nさんの自宅の駐車場の車の車種まで識別出来ると言う。僕のちっちゃな自宅は住宅地図でも虫眼鏡でないと確認が困難なのに、この監視衛星でははっきりと確認出来るみたいです。実は今夏頃、icikinさんがこのグーグルアースについて記事を書いていたのですが、僕のIT環境は光でもブロードバンドでもないので、接続するに時間がかかるみたいで、アクセスしなかったのです。*1
 確かに保坂さんが言うように、この権力は巧妙で僕たちは、この網の中から外へ出る想像力さえ奪われかかっている。人々は見えない権力の追い込まれ、「楽になる」(無痛文明)という触れ込みでみんなが何となく了解して、例えばそのサイクルに入らない人間には“ニート”という烙印を押す。彼らが形而上学(哲学)に走ったり、異議申し立てをしないように監視する工学的システムは益々磨きがかかって政治家だって監視される一匹に過ぎない。
 そこからの脱出はあるのだろうか、あるんだという作家としての模索が保坂和志の『小説の自由』に結実し、延々と『新潮』に連載されているのでしょう。森岡正博は『無痛文明論』という大作で学者としての分析は行った。でも、問題はそこから出発して『○○の自由』が有り得るか、有り得ないとしたら、東浩紀のいう『動物化』の工学システム内で「楽に」生理的に生きるか、それが、いやなら、外が廃墟であろうとも、飛び出すか、映画であれ、文学であれ、他の芸術であれ、そこの踏ん切りがついている作品でないと、読んだり、見たり、聴いたりする気が失せます。
 世界は単純なのかもしれない。大事な軸を手放さなければ…。その軸を手放すもんだから、世界は複雑怪奇になってしまう。教養であれ、品性であれ、善であれ、正義であれ、言葉はどうでもいい、そのような軸がこの世界にはある。そんなことを『風の旅人』のかぜたびさんはイチローや松井のバッティングフォームについて例証しながら、連日エントリーアップしていますね。
参照:2006-01-06 - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜『芸術の自由』
2006-01-01 - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜『21世紀の人間学

*1:ichikinさん経由で蛇崩川の画像を添付しました。