まだ、生きているからこそ資源 

 遅れ馳せながら小松美彦著『脳死・臓器移植の本当の話』を年を越えて読みました。新書版であるし、タイトルも優しそうな『〜本当の話』だし、序章は『「星の王子さま」のまなざし』で始るといった文学臭がある。
 「取り出された心臓を心臓のなき人間がしかと見送る」(岡井隆エピグラフが記され、それに呼応する終章『旅の終わりに』のエピグラフがサン・テグジュベリで「死者は、その翌日になってはじめて、沈黙のなかで死ぬことになるだろう」と、小松美彦の工夫は意識してアカデミックなフレームから広がりを持ってより多くの人に啓蒙しようと、文理両道から迫ってくる切実さと緊張感に満ちた力強い文章になっている。でも著者の熱情には説教臭さはない。いみじくも著者自身があとがきで書いているように、本書は脳死・臓器移植問題を主題にした書物であるが、実用書でもなく専門書でもない。全体から脳死・臓器移植というキーワードを一掃したら何が残るのか。そんな強い問題意識があったのです。優れて本書は哲学する本になっている。あらゆる死生をめぐる問題に通底している。著者がただ一点、読者に呼びかけたことは「自分の目で見る」、「自分の心で感じる」、「自分の頭で考える」、その基本姿勢なのです。
 そもそも、本書を知ったのは武田徹の東大先端研のセミナーの『リスク社会と報道』で詳細はichikinさんのブログで『ヒトES細胞とメタ・バイオエシックス』を読んでもらうとして、講義内容は白熱したやりとりだったらしいですね。
 僕自身も『自分の身体は自分のものではない』とエントリーしていますが、脳死・臓器移植問題に関しては時たま森岡正博脳死・臓器移植掲示板を時々覗く程度ですが、あまりの膨大な情報量に圧倒されて、トレースしていないのが実情です。てるてるさんのデータ1データ2そのほかにも脳死・臓器移植に関するテキストがブログに公開されており、その情報量に圧倒されますが、僕の立ち位置は小松さんやichikinさんにシンクロしますね。
 脳死者は死者でない脳死っていう言葉を使うからややこしいのであって、脳死安楽死の問題と似たような“まだ生きている土俵”で検証すべきでしょう。そこのところをズルして、一足飛びに“もう死んでいるという土俵”を政治的に仮構して結局は人体の商品化へと進む方向性を暗黙の了解としているのではないのでしょうか。先に資源足り得る人体を要請して納得の行く方途を構築しようとするなら、そこのところは誤魔化してはいけないと思う。

 さて、「森岡・杉本案」は、以上のような無根拠・無原則・無責任と言わざるをえない立場を何故にとらざるをえなかったのだろうか。その理由は二つあると考えられる。
 一つは、この問題に関しては、森本・杉本には主体性が稀薄だからだろう。換言するなら、大衆の多数派に同調する姿勢をとりつつ、脳死・臓器移植問題の交通整理役を演じているからである。先に確認したように、森本・杉本が脳死をも死(の基準)として認めるのは、そうした者の割合が多いからであった。他方、「多様な死生観」や「死の多元主義」を標榜しながらも、植物状態や無脳状態を死(の基準)として認めないのは、そのような意識を有している者はあっても、公的に明言する者はやはり少数派だからだろう。
 そもそも一般的な議論において、脳死を死(の基準)としながらも植物状態や無脳状態をそうしないことには、原則の妥当な根拠もない。しかも、森岡・杉本はその根拠とされてきたこと(脳死状態になれば「身体の統合作用が消失する」「心臓も十日ほどで止まる」)を自ら否定したのである。にもかかわらず、そうした無原則・無根拠な世間の「常識」に無理に合わせるのだから、両氏が無原則・無根拠になるのは二重の意味で当然ということになる。この二重の意味で当然なことを平然と実行するところに無責任性が生じるのである。
 大衆迎合といっても過言でないこうした姿勢は、戦争に反対する者が多いうちはその先頭に立ち、逆に戦争を支持する者が大勢を占めるようになれば立場を鞍替えする、といった歴史的に枚挙にいとまのない学者の在りようにつながっている。筆者が特に残念でならないのは、評価が真っ二つに分かれることを覚悟の上で自らの生身の主体性と原則をさらけ出し、一筋の根拠をグロテスクまでに押し通した『無痛文明論』(2003年)を世に問うた森岡が、脳死・臓器移植問題に関してかような姿勢にあることだ。しかも、『無痛文明論』の思想(ことに「自然化されるテクノロジーに対する戦い」)と脳死・臓器移植を容認することとは決定的に矛盾するはずである。(p368〜9)

 第七章『「臓器移植の改定問題』で、小松さんは「森本・杉本案」を批判しているのです。小松さんの軸がしっかりしているので、凄く説得力があるのです。ここまで、書かれているのに、なんらかの反論が森岡生命学HPに掲載されているのかと、掲示板に書き込みしている常連さんに教えてもらいたいものです。
  僕の不明と言えばそうなんですが、森岡さんが脳死・臓器移植を容認しているとは思ってはいなかったのです。まあ、僕は『無痛文明論』から森岡生命学にアクセスしたもんだから、勝手な思い込みがあったんでしょうね。この際、小松美彦×森岡正博の対談を実現して欲しいですね。そうすれば、より、問題のありどころが明快になります。
 第三章『脳死神話からの解放』のエピグラフ「自意識の哭きたくあるを哮えたきを/死化粧して微笑んでやる」福島泰樹)です。
 本書に関してはとみきちさんもブログアップしていますね。とてもスリリングな本です。僕のブログには森岡正博生命学を訪問している方が多いので本書に関するコメントを聞きたいものです。
 森岡さんは両義性、悪く言えば、鵺(ぬえ)のようなところがあります。別段そのことで糾弾しようとしているわけではないのです。僕自身そのようなところがあります。無痛文明論にしたところで、読者に結局は「丸投げ」している。多分、本人は無痛文明の中心へ徹底的にもぐりこみ享受する、脳死・臓器移植にしたところで、森岡さんの本意は東浩紀よりは徹底した工学的な人間理解がその前提にあるような気がします。徹底したニヒリズム森岡さんに感じて仕方がありません。所詮人間も生命資源の一つに過ぎない、ただその命を処世と打算のために汚したくない、それだけです。
 参照:[脳死: 臓器移植法改正を考える: 脳死移植, 心臓移植, 生命倫理