なか身を公開する時代

 黒猫房主さんからコメントでひつじ書房の松本功さんの『前書評はなぜ必要か?』のテキストを教えて下さいました。
 僕の貧しい書店体験でも、そのとお〜りとナットク。1960年代後半、ヨコハマの店で定期的に店頭で担当者たちはその時代に対してアンテナを張巡らし、まさに消費財でなく情報源として棚陳列を心がけました。いまなら、ある種の啓蒙臭さにより“うざったいもの”であったかも知れない。でも一介の書店員であっても、そのようなメッセージを発信することによって、読者が反応してくれるキャッチボールの回路があったのです。
 一つの記憶としてまだ公害という言葉が一般化していない頃、店頭で『公害を斬る!』というPOPで特設コーナーを演出した折、朝日新聞の神奈川支局が取材に来て、紙上で大きく取り上げられたことがありましたね。その頃は今と違ってまだ朝日新聞神話は生きていましたから、絶大な効果がありました。
 読者は単に消費者でなく、読書人として情報を求めていたのです。それが、今ではネット検索でまず最新の情報を仕入れようとする。僕にしたところで、去年、目眩で救急車に運ばれた折、先生に診断の病名を聞いてグーグル検索しました。それによって、素人療法もありますが、すごく参考になりましたね。担当医の前立腺癌に関するテキストも簡単にヒットしたし、その先生の大学での講座テキストも読みことが出来ました。
 そんな状況の中で利便性と、速さに対抗して印刷媒体がネットに勝とうとするのは所詮、無理です。それより、上手に共存共栄を考えるべきでしょう。今回のアマゾンの「なか見!検索」にしたところで、参加している版元が少ない。特に人文書のような啓蒙を売りにするところは積極的に「なか見!検索」を利用すべきでしょう。双風舎のleleleさんが嘆いているように宮台真司の沢山ある本の中で「なか見!検索」出来るのは双風舎だけとは、寂しいし、販即に関して大いなる勘違いをしている気がします。どんどん、人文会あたりはアマゾンのかようなシステムを利用すればいいのです。実際、リアル書店に比べてアマゾンでは専門書、人文社会科学書の売上げが伸びていると聞きます。かってのリアル書店における店頭が「知の現場」であった幸福な読者との関係性は失われたのかもしれない。今朝、晶文社発行のポールニザン『アデン・アラビア』に関して『懐手して天体観察』さんが、店頭での忘れがたい出会いについて書いている。かっての店頭ではよくありました。店頭が出会いのスポットでもあったのです。勿論、待ち合わせ場所として定番でした。

しかしながら、そういった時代は終わってしまったのである。真に有益な情報は、現場での試行錯誤にしかない。こうした時代は、店頭の本は、情報源ではなくて、まさに単なる消費財となる。
 ここで、二つの選択肢がある。消費財として本をこのままの時代の流れに放置しておくか、あらたな知識財として再構築しようと試みるか、である。人文書を、中心に考えるなら、後者しか選択肢は無いと言うのが私の考えである。

 その後者の選択はシステムとして『前書評』を立ち上げるしかないと、松本さんはおっしゃるのです。理想としてはそうでしょうね、でも中々実現に困難がつきまとう。僕が今考えている即効性は折角、各出版社がHPを管理しているのだから、掲示板、もしくはブログ機能を生かして、近刊予定の本の情報を出来る限り公開して流すことでしょう。双風舎さんは『限界の思考』でそれを行いましたね。本が出来上がってゆくライブ感覚を僕は感じて、予定の発売日が大幅に遅れたのに、「買いたい!」という気分は最高に盛り上がっていました。まあ、これは双風舎さんが意識して仕掛けたものでなく、「たまたま」であったと思いますが、「前書評」でなく、例えば一部上がった、序文を公開するとか、色々なパフォームがあると思う。発売日に向けてトークイベントとか、ネットで「なか見」をちょっぴり紹介とか、やりかたは色々あると思います。例えば、ウラゲツの月曜社さんが「編集会議」を公開するようなことを書いていましたが、そういうやり方も一つの選択肢でしょうね。
 参照:著作権の保護は作者の死後20年に短縮しよう - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/060111/02.html