上野千鶴子

 黒猫房主さんのシャノワールカフェでジェンダー・フリーって?のエントリーで鈴木薫さんともども、上野千鶴子さんが東京都と喧嘩されている経緯を紹介しています。えこまさんもこの件はエントリーしていましたね。上野千鶴子講演会(精華大学)です。ジェンダー・フリーはそれぞれがそれぞれの文脈で都合よくつかっているので、どうも議論が噛み合わないのが多い。「ニート」ほどでもないですが、「ニート」にしろ、「ひきこもり」にしろ、議論する前に厳密な定義づけのフレームでやってもらわないと、行き先知れずの迷い子になってしまう。黒猫房主さんが書いているようなはてなりんくの理解はもっとも一般的であるでしょう。

男女の違いについての、社会的歴史的に形成されて、伝統的・慣習的に当然・自然とみなされるようになった区別、「あるべき姿」、役割分担などが、盲目的に押し付けられ、強制されることで生じる不利益、不公平、偏見などをなくそうという日本の運動・思想。

 そういう歴史的伝統的、社会的、慣習的に刷り込まれた文化としての身体的性差がそれでもカテゴライズされ得ない残余が生きものとしての人間ならばあるはずだ。そういうのは当然でしょう。言葉と物はズレがある。男と女という記号をデリートしても♂♀は物として存在する。だから、ジェンダー・フリーは女性学だけの問題でなく、男性学の問題でもあるわけだ。僕なんか男であることに抑圧を感じた部分は一杯ありました。でもそんなことは珍しくもなく、「男であることに抑圧を感じなかった男」はむしろ少ないでしょう。女にしろ、男にしろ、それは文化的、社会的な抑圧を感じることであって、女性の方が抑圧の濃度が格段に高いということだと思う。もし、仮に「男である」ことの抑圧に我慢できなくて、明日から「女になれる」という書き換えが簡単に出来るとしても問題解決にもならないでしょう。女の人が明日から男になれたとしても、又は男社会から女社会に社会変革が起っても、「男を差別する」ジェンダーフリーの問題が新たに起るだけでしょう。まあ、僕は出来るだけ性差に関してはルーズに「外に出て働きたい人は働く」、「子育て、家事をしたい人はそれの専念してもなんら疚しさを覚えない」、それが男の役割、女の役割とは関係ないことで、「男である」、「女である」、ことに抑圧を感じないでルーズにノンシャラに勝手にやればいいと思う。