大文字の他者

イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

UFOとポストモダン (平凡社新書)
 スラヴォィ・ジジェクが良く取り上げる小話があります。今読んでいる平凡社新書木原善彦著『UFOとポストモダン』から孫引用します。

その馬鹿は自分のことをトウモロコシの粒だと思い込んでいた。しばらく精神病院に入院して治療を受け、何とか治療した。つまり自分がトウモロコシではなく人間だということがわかったのだ。それで医者たちは彼を退院させたが、しばらくして彼は走って帰ってきて、こう言った。「ニワトリに会ったんです。食べられちゃんじゃあないかと思ったら怖くて……」。医者はたちは彼を落ち着かせようとしてこう言った。「いったい何を怖がっているんだい。自分がトウモロコシではなくて人間だということはわかってるんだろう」。馬鹿は答えた。「ええ、もちろん私はわかっています。でも私がもうトウモロコシじゃないってことをニワトリはわかってるんでしょうか」。(『イデオロギーの崇高な対象』57〜58)

 木原はこの小話の可笑しさは男が「自分が何ものであるか」を決めるのが自分だと思っていることにあり、「自分がトウモロコシでない」と信じた時点で治癒したと考えている。だがことは単純でない。

 しかし、もちろん「男が何ものであるか」を決めるのは男自身ではありません。決めるのは彼以外の何者か(他者)です。だからといって、ニワトリが決めるわけでもありませんし、医者が決めるわけでもありません。というのも、男自身もニワトリも医師も(あるいは極端なことを言えば世界中のすべての人間が)「男はトウモロコシだ」と思い込み、かつ現実には「男は人間である」ということがありうるからです。結局、突き詰めてみれば、「男が何ものであるか」を決めているのは、個々の具体的な他者(小文字の他者)には還元できない存在、すなわち抽象的で一レベル上にあるものということになります。これが超越的な他者、あるいは「大文字の他者」と呼ばれるものです。(p43)

 大澤真幸の言葉で言えば「第三者の審級」でしょう。東浩紀で言えば「大きな物語」。「神」といい、「イデオロギー」でもいい、そんな大文字がないと、人間は右往左往してメンヘラになるしかないのか、組織の内部にいればそんな気付きもうっちゃっておくことが出来るが、来年あたりからごそっと大量に団塊世代が組織外にはき出されたら、トウモロコシでなく人間だという保証を東浩紀の『動物化』に拠所を求めるしかないのだろうなぁ、でも、これって結構シンドイ操作が必要だと思う。
 幸か不幸か僕は去勢の日々を送っているけれど、推奨できる選択肢ではないもんなぁ…。暴力なりエロスなりは「大文字の他者」が生み出すものでしょう。この世から紛争をなくすには「大文字の他者」を求めてはならない、しかし、戦争反対を声高に行動する人たちは「大文字の他者」を背骨に持っている。そして互いに戦争反対と言い募りながら戦争をする。大文字を背景にすると戦争も平和も同じ位相にあるのであって、明日の平和を実現するために今戦うという言説が正義となる。でも僕は明日のことでなく今の平和が欲しいです。そんな大文字を背景にしないと、そりゃぁ、毎日が不安でしょうね、でも、不安であることが誠実の証だと思う。不安でいいんだと思う。
 だが、問題は退屈な日常に耐えられるか、この世で「退屈」が一番貴重だと思い込むことが出来るかということに帰着するのではないでしょうか。
 参照:田中小実昌の呉の十字架のない『アーメン父』の教会と呉港に浮かんだ戦艦大和について赤瀬川原平「本物の戦艦大和はそれは本物とはいえ、じつは迫真の模型だったのではないだろうか。」と雑誌「考える人」に書いているのですが、そのようなことと、この「大文字の他者」とはどこかで、つながっていると、ichikinさんのブログで気付かされました。
http://d.hatena.ne.jp/ichikin/20060304
http://d.hatena.ne.jp/ichikin/20060221