クオリア小爆発(未遂)

クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)

クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)

 
 茂木健一郎さんの『クオリア日記/地下からどどどどどと吹き出す寸前』を読む。「そうだ、その調子、どどどどと、爆発しなくては…」、くだらぬあやふやなデータを自分の都合で寄せ集めて、需要があるから売れるから、わかりやすいトンデモ的なキット本を作り上げる。そうやってベストセラーズになれば、不況の出版業界を活気付け、その儲けがが回り回って、世代を超えて読むに耐える本を生む。まあ、そんな視点に立てばノイズもこの世界には必要であるのですが、含羞のないノイズってやはり耳障りで耳を塞ぎたくなります。

「茂木さんの言われるのもわかるんですけど、・・・べきというのは、商品開発には役に立つんですよね」

 中之島フェスティバルホール産経新聞社主催、「子ども大変時代フォーラム」にパネラーとして茂木さんは登場したとのこと。、基調講演は僕の周りでトンデモ本的評価の高い(だから、読むことを躊躇して読んでいません)『ケータイを持ったサル』の正高信男氏だったらしい、
 講演内容はわからないが、『ニートって言うな』後藤和智氏がブログ上でもスレを立てて『俗流若者論』に若者の視点から安全地帯から「…べき」という説教を垂れるオヤジ達の含羞のなさに「どどどど…」って、ときどき「ろろろろ…」って愛嬌の変奏曲を奏でていますが、正統に勇気を持って攻撃の刃を振る舞っている。その一人として正高信男をカテゴライズしています。
 その後藤氏の目を通した正高信男氏はトンデモ本の人だなぁと、思ってしまうのですが、学者として例えば雑誌『風の旅人』に連載された14、15号の「ことばの起源」はとてもスリリングな啓蒙的な論考ですが、これを読むとリスペクトしてしまう。まあ、僕の中では昨日書いた内田樹氏でもそうですが、森岡正博氏も誰であろうともその作品、論考で評価するのであって、その作品を離れてその人自身をリスペクトするわけではない。
 茂木健一郎さんはそんな複眼を自在に持ちえる人だと思う。「クオリア」というバックボーンがあるとてしても、「クオリア」はマニュアル化できるものではない、「驚き!」があって、「どどどど」っと、出現するのが「クオリア」で、「驚き」の前に「クオリア」があるわけではない。

これだけはどうしても言いたい。/子どもの育て方で、これはいけない、/こうすればいい、などと言われるが、
そんなものは絶対ではないし、不幸にして、/あるいは偶然に、「ダメ」だと言われる/育ち方をしてしまったとしても、
それはそれで引き受けてがんばって/生きるしかない。
 「・・べき」論は/話半分に聴いていればいいんだよ。/人間をバカにするな、/ということです。機械じゃないんだから。/
 全ての真理は、統計的なものでしか/ないんだから。
 「・・・べき」見たいな、息苦しい/世界じゃなくて、/ どんな条件を与えられても、何とか/
前向きに生きのびる、そんな人間の/基盤について考えた方がいいんじゃないか!

 久し振りに茂木さんらしい「どどど」を聴きました。海の音が聞こえる。これこそ、クオリアなのです。驚きが感化して思わずコピペ引用してしまいました、失礼。
 説教をしたがる人の説教は駄賃を払ってまで聴く必要がない、まず、自分の頭で考え抜きましょうよ。