マルチチュードの一人として唱和

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)
 少し風邪気味だったので、薬を飲んでたっぷり寝て、熱は少し下がったみたいなので昼から市の「明るい選挙推進協議会」の総会に参加する。数百人が参加した中に壇上にずらりと並んだ、会長、副会長、五、六人、全員女性の方で議事がスムーズに進行する。そして今回で会長は辞任し、新しく会長、副会長が選任されるのですが、これまた全員、女性の方達です。
 そして最後に<きれいな選挙五つの提唱>を全員、立ち上がって唱和させられました。当たり前のことなので、素直に大きな声を出しました。

●よく見、よく聞き、よく考えて投票しましょう。
●選挙法を守らない候補者はボイコットしましょう。
●わたしたちの代表者の活動を常に見守りましょう。
●議員などから祝儀、花輪などは絶対にもらわないようにしましょう。
●議員などに祭りや団体旅行などの寄附を絶対にねだらないようにしましょう。

 しかし、大人達が唱和してもあんまり教育的効果がないような気がする。子供たちには投票権がないけれど、小学校の授業で音読唱和するといいかもしれない。
 去年、出版された本ですがアントニオ・ネグリマイケル・ハートの『マルチチュード(上)(下)』読み始めました。マルチチユードは想像力を刺激する概念で、僕の中で「web2.0」と同じようなベクトルにありますね、そうは言っても、[web2.0]も「マルチチュード」も明確にその正体を捉まえているわけではありません。グーグルやアマゾンの世界戦略を上手に裏を返せば国家を溶解するマルチチュードが登場する。現に表通りでは<帝国>が近代国家を有名無実なものとするダイナミズムが展開している。そしてその過程で<帝国>はネットワーク型にならざるを得ない。そのような選択肢しか生き残れない。そしてその<帝国>は必然的にマルチチュードを生み出してしまう。かような僕の理解は楽観的し過ぎるであろうか。

まず最初にマルチチュードという概念をもっとも一般的で抽象的な形で理解するために、人民という概念と対比してみることにしよう。人民は<一>である。人びとの集まりが多数の異なる個人や階級からなることはいうまでもないが、人民という概念はこれらの社会的差異をひとつの同一性へと統合ないしは還元する。これに対してマルチチュードは統一化されることなく、あくまで複数の多様な存在であり続けるのだ。だからこそこれまでの政治哲学の支配的な潮流は、人民は主権権力として自ら統治できるが、マルチチュードはそのようにはできない、と主張してきたのである。マルチチュードは一群の特異性からなる。ここで私たちの言う特質性とは、その差異が決して同じものに還元できない社会的主体、差異であり続ける差異を意味する。他方、人民を構成する要素はひとつに統一され、互いに差異のないものとなる。それらの要素は互いの差異を否定したり、無効にしたりすることによって、同一的なものとなるのだ。このように、マルチチュードを構成する複数の特異性は、人民を構成する差異を排除した統一性とは明確な対照をなすのである。
 もっともマルチチュードは多数多様なものであるとはいえ、バラバラに断片化した、アナーキーなものではない。その意味でマルチチュードの概念は、群衆や大衆や乱衆といった複数の集合体を指示する他の一連の概念とも対比されなければならない。群衆を構成する異なる個人または集団はバラバラで、共通の要素を分かち合うという認識を欠く。そのため、それらの差異を寄せ集めても不活発な状態にとどまり、差異をもたないひとつの塊のように見えてしまいがちだ。大衆や乱衆や群衆の構成要素は特異性ではない。このことは、それらが相互に差異をもちつつも、差異の抹消された全体へとあまりにも簡単に化してしまう事実からも明らかだ。さらに、これらの社会的主体は自分自身では行動できず、誰かに導いてもらわなければならないという意味で、根本的に受動的な存在である。群集や乱衆、あるいは暴徒は社会的影響ーー多くの場合、恐ろしく破壊的な影響だがーーを及ぼすことはできるが、自発的に行動することはできない。それらが外部からの操作を非常に受けやすいのはこのためだ。他方のマルチチュードは、特異性同士が共有するものにもとづいて行動する、能動的な社会的主体である。マルチチュードは内的に異なる多数多様な社会的主体であり、その構成と行動は同一性や統一性(ましては無差異性)ではなく、それが共有しているものにもとづいているのだ。(p171~2)

 なるほどマルチチュードの記述は僕をわかったような気にさせてくれますが、時間が立つと具体的な像がみえなくなるのです。そんな心許ない感触です。でも最近、グーグルのツールに感嘆していると、グーグルのやっているネットワーク型支配は<帝国>そのものであり、<マルチチュード>そのものである、そんな気がします。この怪物はどちらの像を見せてくれるか、それはわからないが、還元出来得ない特異性を持つことがマルチチュードの一人一人に課せられているとしたら、ある種の成長物語が要請されるし、教育が大事になってくる。だって、馬鹿であると、十把一絡げで動員されてしまうし、そのような愚はやはり避けたい。特異性を認識することによって、共通性が見えてくる。そこから出発なのでしょう。