ネグリ&ハートの『マルチチュード上』より

kuriyamakouji2006-04-29

 非ヨーロッバ的な観点から見たグローーバルなマルチチュードとは、あまたの特異件が、互いに分かちもつ〈共〉、自らが生み出す〈共〉を基盤にして結びついた聞かれたネットワークだといえる。ヨーロッパという基準に照らして世界をみる見方をやめるのは誰にとっても容易なことではない。だがマルチチュードの概念はそれを私たちに求めている。このやりがいのある課題に正面から取り組もうではないか。(p216)

 ネグリ&ハートのマルチチュードは前日に紹介した保坂和志の「プー太郎」も一員としてカウントされる「一即多」でしょう。

 マルチチュードを構築するために必要な中心的条件のひとつは、労働が<共>になることであるーーそう私たちが言うとき、賃金労働から排除されている者たち、すなわち貧者や失業者、賃金収                    
 入のない人びと、ホームレスなどは定義上、マルチチュードからも排除されているという意昧にとられてしまうかもしれない。だかそれは違う。なぜならこれらの階層も社会的生産に組み込まれて 
 いるからだ。階層秩序や従属を押しつける無数のメカニズムにもかかわらず、貧者は常に途方もない生の力と生産力を表現しつづけているのである。
  このことを理解するには、視点を逆転する必要がある。世界中でますます多くの人びとが十分な収入や食糧、住居、教育、医療を得られずにいるという事実を認識し、それに抗議することーーつまり、貧者は〈帝国〉のグローバル秩序の犠牲者であるという認識をもつことが必要なのはいうまでもない,だがそれよりも重要なのは、貧者は単なる犠牲者であるばかりか、強力な行為体でもあ
るということだ。「持たざる者たち」−雇用を持たず、滞在許可証を持たず、家を持たない人びとーーは、部分的に排除されているにすぎないのである。
 貧者の生活や活動を丹念に見れば見るほど、彼らがどれだけ創造性に富み、力にあふれているか、そしてこれから明らかにするように、彼らが社会的および生政治的な生産の回路の一部分であることが見えてくる。貧者がますます社公的生産のプロセスに組み込まれているかぎりにおいて、彼らは、他のすべての伝統的な労働者階級とともに、〈共〉的状態への参加者となりつつあり、ゆえに潜勢的にはマルチチュードの一部なのである。貧者がさまざまな形のサービス労働に参入し、農業においてますます中心的な役割を果たしつつあり、広範囲にわたって移動しているという事実は、
このプロセスがすでにどれほど進展しているかを如実に物語っている。もっとも一般的なレベルにおいて、知識や情報、言語形態、コミュニケーションのネットワーク、協同的な社会的関係の生産をはじめとする生政治的生産は、貧者を含めた社会全体を巻き込んでいくものだといえる。(p217)

 ここで、ルンペンプロレタリアートについて語り、貧者のイメージを逆転させる。移民について、労働組合について、特異性の集合としてのマルチチュードのただなかにコミュニケーションと協働からなる<共>的な力を生み出してゆく。それが貧者の豊かさなのであろう。実際のところ、貧者と富者って相対的なものだから、個々のルサンチマンが溶解しないかぎり、貧者は目に見える富者の豊かさを欲するだろうし、欲する限り、その路線の彼方でしか、マルチチュードは現れないであろうな、恐らくそんなにきれいなものではない、ただ、その更新、運動の中でしか、生きるしかないであろう、
まだ、読書中なので、続く…、
ただこれだけは言える。貧者、富者も<公>を生み出すものでなければ、生み出せばそれが豊かなものなのだろう。