映像要理

kuriyamakouji2006-05-28

 写真論でもあるのですが、読み終わってどうしてもこの本が欲しくなりました。それで、日本の古本屋などをネット検索したのですが、他の四方田犬彦本は沢山ヒットするのに、この『週刊本 映像要理』(朝日出版 1984刊)は一件もヒットしなかったです。事情はアマゾンでも同じでした。気をつけて街に出たおり、古本屋を覗いて見るのですが、あるらしい気配すらしない、第一この週刊本(新書版)の他のリストも興味ありますね、週刊本自体が目に触れないのです。新書ブームなのだから、先日、ここに書いた大澤真幸の『虚構の時代の果て』(ちくま新書)ともども、復刊して欲しいですね。

 人は生涯にいくつの女性性器を見るか。
 今日において、この問いは次のように反動的に解釈されている。すなわち
 人は生涯にいくつの物語を読み終えるか。

 われわれの時代の性をめぐる神話において、女性性器は何事かの終わりの記号として作用している。人は、たとえばバタイユの『マダム・エドワルダ』のように、場末の娼婦の女性性器に到達し、その「生なましい傷口に唇をおしあて」タクシーのなかで男根を挿入しえた瞬間に、物語を終わらせてしまうという宿命を背負っている。名探偵の探求する真犯人。孤島の洞窟に隠された宝石の棺。聖杯。天空の彼方より飛来する新イェルサレム。およそ物語という物語が何らかのかたちで探求の物語であり、隠蔽された物の顕現によって幕を閉じるものである以上、その目的物は女性性器と範列的関係にあるといえるだろう(一度寝ればその女のすべてがわかると口にする男性は、二度と同じ小説を手にとろうとしない無邪気な読者に似ている)。ストリップ・ショーと推理小説、さらには真理への意志に促された哲学的探求を区別するものは、どこにもない。いずれもが雑多に存在する複数の記号のなかから虚偽の記号が次々と排除され、最後に残された真正の記号が外被をかなぐりすてて長い間秘められていた内容を提示し、かくして物語が完結するというシステムにおいて、同様であるためである。そして、この物語の枠組の外側に脱出しないかぎり、人は蓮賓の説く擬似表層化の不幸から解放されることができない。

 人は生涯にいくつの女性性器を見るか。
 この問いは、したがって、次のように肯定的なカに基づいて解釈され、また答えられなければならない。すなわち、
 人はいつ、性器と呼ぱれているものが単一のものではなく、性体験とは性器の体験ですらないということを体験するのか。
 人は顕現の物語から難れて、いかにして生を全うすることができるか。
 人はいつ、女性性器を物語の終止符として見ることを止めるか。いつ、単一の物語には単一の性器が対応するという信仰から脱け出ることができるか。
 人はいつ、生涯というものには実のところ始まりも終わりもないという真実に目醒めるのか。
(168〜171頁)

 と言う結語で読み終わりました。
 大阪府立図書館で借りたのです。だいぶ黄色く変色していますが、貴重な一冊ですね、本書はオンライン日記で武田徹さんが、言及していたのをず〜と気になって、機会があれば読もうと思ったのですが、とても刺激的な、確かにメディアリテラシーの一助になる傑作本であり、素直に啓発されました。四方田本の中で大事な一冊になりますね、是非とも何らかの形で復刊すべきだと思う。そして復刊するときは本文挿入の画像をちゃんと印刷して欲しい。興味のある方は近くの図書館経由でリクエストをだしたら…。
 この新書は一週間で消費してもらい、重刷は全く考えないコンセプトで編集されたらしく、週刊誌感覚で紙質も悪く、500円の均一本で、なんとも手軽な本という感じがしますが、そのあたりは洒落めいて、他の目録を見ても、一週間で捨てるどころか、枕頭の書にしてみたい内容の本があるみたいですね、勿論、この本もそうです。なんとも小気味のいいパラドクスじゃあないですか、こういう羞恥心のある本は好きですね。