ドラえもんの記憶

オンライン書店ビーケーワン:生きて死ぬ私オンライン書店ビーケーワン:生きて死ぬ私オンライン書店ビーケーワン:脳とクオリア知覚の扉 (平凡社ライブラリー)ドラえもんぬいぐるみ サッカー日本代表バージョン
 かぜたびさんのエントリー『子供の未来と、哲学や神話』で記憶のことに触れている。

 記憶というのは、過去のことだと思っている人がいるが、実はそうではない。人間の未来は、記憶の中に蓄積されているもので今だ具現化されていないものが、少しずつ顕現していくものだと思う。
 だから、記憶が豊かであればあるほど、未来も豊かなものになっていくだろう。豊かというのは、快適とか恵まれているという今日的な尺度ではなく、微妙な機微がたくさんあって、喜びも切なさも含めて、常に新鮮な驚きがあるということだ。
 すなわち、合理性と有用さに重きを置きすぎるコミュニケーションによって記憶が希薄化すると、その人の未来において顕現するものも希薄になる可能性がある。
 世の中をうまく渡ることができても、新鮮な驚きのない人生が良いものだとは思えない。

 「人間の未来は、記憶の中に蓄積されているもので今だ具現化されていないものが、少しずつ顕現していくものだと思う。」はちょうど茂木さんの『生きて死ぬ私』(筑摩文庫)を読了した余韻ではすんなりと、頷いてしまいました。本書はエッセイというか、人生論というか、論文のようなものというか、お世辞にも体系的とは言い難い、でももっとも茂木健一郎らしい本とは言える。知性と感性が交差する愛すべき本に仕上がっており、読み手を自由に羽ばたかせてくれるものです。一応章立てになっていますが、まるで、詩人か、科学者か、哲学者か、読者を混乱させる章立てです。
 第一章 人生のすべては、脳の中にある
 第二章 存在と時間
 第三章 オルタード・ステイツ
 第四章 もの言わぬものへの思い
 第五章 救済と癒し
 第六章 素晴らしすぎるからといって
 初出は1998年で、処女作『脳とクオリア』(日経サイエンス)に次いで徳間書店から刊行されたもので、今年やっと文庫になったのです。
 ところで三章のオルタード・ステイツ(意識の変成状態)で茂木さんはC・D・ブロードによる制限バブル説に言及する。「心のあらゆる属性は、脳の中のニューロンの発火の特性だけですべて説明できる」という「認識のニューロン原理」を基本的に支持しているのですが、「対外離脱体験」、「意識の拡大といった現象」が実際に存在すれば、ニューロン原理では説明出来ない心の性質が存在することを認めざるを得ない。そのような脳と心の関係について「認識のニューロン原理」を越えるかもしれない道筋を予感させる何かがあるとして、ブロードに触れるのです。ブロードは有名なハックスレー家の出身でオルダス・ハクスレーの『知覚の扉』(平凡社ライブラリー)から孫引用します。ー(『生きて死ぬ私』ー112頁ー)よりー

 ベルクソンが記憶と感覚知覚に関して提唱したような議論をわれわれは今までの傾向を離れてもっと真剣に考慮した方がよいのではなかろうか。ベルクソンの示唆は、脳や神経系それに感覚器官の機能は主として除去作用的であって生産作用的ではないということである。人間は誰でもまたどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生ずることすべてを知覚することができる。脳及び神経系の機能は、ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが圧し潰され混乱を生まないように守ることであり、放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を閉め出し、僅かな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである。

 恐らくそれは誤解を恐れず言えば無意識に僕たちは神の認識をしているのだろうか、無限の記憶の中にデータ保存されている。そんな途方もなさでは、途方に暮れる。ニューロンの発火点のフレームの中で人間の認識で良きかなと禁欲するわけか。

 ブロードの主張を要約すれば、本来の知覚作用は、時間的、空間的に無限定であり、脳の機能は、生体の生存にとって有益な情報だけを認識するように制限することにあるということになる。この説を、「制限バルブ説」と名づけることにしよう。

 未来の記憶か、未来どころか、そもそも、時制に関係がないのでしょう。空間の制限もない。ドラえもんかな、まあ、この制限バブル説は茂木さんのクオリア解明とどこかで交差するのでしょうね。