ニュージャーナリズム

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 前々日のコメント欄でニュージャナリズムのことについて書いたのですが、でも、トルーマン・カポーティの『冷血』がニュージャーナリズムの作品そのものだとわかるが、言葉で説明しようと思っても、ノンフィクション/ドキュメント/ニュージャナリズムとか、並べてもニュージャーナリズム?の問いが深まるばかり。
 それで、念のために「ニュージャナリズム」でグーグル検索したら、何とたったの4件のみ、おまけに一件目の頭が僕が去年アップした『歩行と記憶ー加害の証言ー』なので、これじゃあ、まるで、ブーメランで元に戻っただけではないか、
 「グーグル」は言ってみれば「ニュー」ジャーナリズムを切り開くトップランナーの一面もあるはずなのに、あまりにもデータが少なさ過ぎる。僕のデータより、↓に貼り付けた武田さんのエントリーをロムしてくだされば歴史用語としてのニュージャナリズムの武田さんらしい考察を知ることが出来ます。でも、こちらはグーグル検索でひっかからない。
 79年、『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した沢木耕太郎はニュージャナリズムの旗手という紹介のされかたをされたはずです。でも今ではこの言葉は死語になっているのでしょうか、例えば佐野真一を語るときノンフィクションの人とは言うが、ニュージャナリズムの人とは言わない。
 藤原新也の新刊『渋谷』はドキュメント小説か、ノンフィクションか、それとも評論エッセイなのか、そのあたりがわからなくて、それで、念のためニュージャナリズムで検索したのです。2005年11月29日にアップされた武田徹の『幽霊のジャーナリズム』を一部引用。

幽霊のジャーナリズム宣言のようなものを『風の旅人』に試みに書いてみた。エッセーにするために身をくねらせているのでエッセーとして読む以外の読解はちょっと辛いだろうし、やっと入稿したところなので出るのはずっと先になるけれど。
幽霊とか、エクリチールだとか、誤配とか、散種とか、そういうことが世界の「地」になっていることに気付いた後にいかにジャーナリズムはありえるのだろう。それを理論化し、さらに実践することこそ従来のジャーナリズムと隔てられる「ニュー」ジャーナリズムだろう。
前に『クイックジャパン』の創刊スローガンに「ぼくたちのニュージャーナリズム!」とかいうのがあって、歴史的なニュージャーナリズム(60−70年のルポジャーナリズム)研究者でもあるぼくは、言葉使いが間違っていると憤慨したものだ(ニュージャーナリズムが歴史用語であることを知らなかったんだと思う)。あんたたちの言っているのは、今まではあまり取り上げられていないサブカルをやるジャーナリズムってことでしょ。対象が変わっただけで「ニュー」を名乗るのは安っぽいと。実際、サブカルがポピュラリティの面ではサブでなくなってしまうと、クイックジャパン的ニュージャーナリズムは新型大東亜共栄圏論としてのジャパニメーション論のような文化ナショナリズムにまったく不感症のくっだらないのも含めて、掃いて捨てるほど存在するようになってちっとも「ニュー」じゃなくなってしまった。
ジャーナリズムの方法そのものの革新。それは60−70年代のニュージャーナリストがやったこともそうだったと思うが、今度はモダニズムの枠組みをいかに乗り越えるかという革新。そんなことが出来てこそ、第二の「ニュー」ジャーナリズムはその名にふさわしいものになるのだと思うのだ。

 そのような「ニュー」を視野に入れて又今年も、ジャーナリストセミナーを開催しているのですね。そう言えば武田さんが「風の旅人」のために脱稿した『ニュータウンと欲望』は藤原新也節の匂いがする。でもそれは、『東京漂流』に近いものであって、今回の新刊『渋谷』とはだいぶ違う。『渋谷』はサブカル色が強いがそれでも新也さんしか書けないものだろうと思う。ただ、『AV女優』、『風俗の人たち』の永沢光雄の仕事とこの『渋谷』がどのように違うのか、まだ僕の中で明確に整理仕切れていない。そして、又武田さんの仕事も『渋谷』のようなものでなく、「メディア・リテラシー」の教育に全力投球することで、今を戦っているのでしょう。
参照:「渋谷」(藤原新也著)のリアリティ - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜