セクハラ、アカハラ、ストーカー小説?

片思いの発見
 小谷野敦さんが『悲望』(文学界)という小説を書いているのですね。毎日新聞(2006年7月26日)の文芸時評川村湊さんが取り上げている。《「悲望」はまさに自然主義文学の再来であり、田山花袋の『蒲団』を先行するテキスト?》、いや〜あ、面白そう!今隣が解体工事で家にいられないのです。僕の部屋のクーラーも使えないし、騒音で、逃げ出すしかないから、図書館に行って久しぶりに『文学界』を読みます。

…主人公のストーカーとしての行動が、「文学」的な根拠を持っているということだ。たとえば、「私」は、彼女にとっての「スヴィドリガイロフ」になろうと決心する。『罪と罰』の脇役で、若い女性に横恋慕して破滅する人物である。つまり、「私」は「文学」という虚構の世界を自分の行動の典拠としている。文学研究者による文学的テキストのうえでの「妄想」。つまり、「私」の異常ともいえる振舞いは、現実よりも虚構の世界に根を持ったものなのだ。…

 先ほど、『悲望』(文学界・8月号)を読みました。読んでいるうちに実際の小谷野さんは知らないけれど、等身大の小谷野1号がどんどんと迫って来て、かなわないなぁと思いました。「狂」を感じさせます。<私小説家>の車谷長吉さんの「狂」と思い比べて、実のところ、僕はあの話題になった『もてない男』すら読んでいない一読者ですが、小谷野さんの小説はこれからも読みたいと思いました。それと同時に僕は小谷野さんって、ネットでしか殆ど知らないのですが、良くも悪くも、学者というフレームに収まらない人だという疑念があったのですが、そうか、小谷野さんて、文士なんだと思いました。文壇の中で文士は消えかかっていたと思ったのに、アカデミーの場に文士が棲息していたのですね、びっくりしました。これからもどんどん書いて欲しいなぁ…。
 マイミクの人が「私にはこういう生き方しかできない」 という言葉をアップしていたが、このような徹底さを作品により結実してもらいたいと思いますね。小説は説教節ではないのです。
 参照:加藤典洋よ、お前は既に死んでいる - 猫を償うに猫をもってせよ
『悲望』小谷野敦: Lエルトセヴン7 第2ステージ
うたかたの日々非モテ系青春小説」