命は命

 「世界はこんなふにも眺められる」web草思の保坂和志さんは「命をめぐる話」をしています。「命」について話す時は政治、思想、信条などの回路を接続すると、往々にして「命でないもの」について語るはめになるのではないか、世界の万物がメタファーで出来ているにしても「命」だけは具体的なここにある、あそこにある、そのものであってメタファーを拒否する。そんな命でも小説家は掴まえることが出来るのか、政治家でも思想家でも「命」を語りながら「命でないもの」を語っているのではないか、そんなことが頭をよぎりました。「命」以外に大事なものがあるだろうか、いや、そういう回路自体も不遜だ。「命は命」、語るとしたら、作品を通してしか語れないものだろう。
 好き嫌いは別として、小谷野敦の『悲望』にはどうしようもない「命」を感じさせるものがありました。仕方がないもの、自省をすればこの小説はダメになっていたでしょう。あらゆる政治的、思想的なものに回収されない、「どうしようもないもの」がここにあります。学者なら反省すべきでしょうが、小説家なら反省してはダメです、と僕は思っています。