70年代前後の本屋から…ネオ家出のススメ

家出のすすめ (角川文庫)
 本田由紀さんの『もじれの日々』は若者たちが働くということに関してどんな風に考えているのか興味あるコメントがアップされるので、時々覗くのですが、まあ、僕はアルバイトの採用しか立ち会ったことがないが、話し合うことでしか採用の決め手はないとは思います。
 「コミュニケーション力」と言うと、教育基本法の「心の問題」につなげて「自己責任論」とネオリベ新自由主義)に回収するような言説が政治やアカデミックな場から発信されているような気がするが、民間、特に中小企業は一にも二にも「コミュニケーション力」を昔から自明視していたでしょう。それは僕が学部卒業で大学の四年間は全く勉強せず、遊び呆けて恐らく学力は段々と落ちて高卒程度も維持出来ず、中卒並の学力だったと思うことからくるのかもしれないですが、最近になって全国紙で今の大学生は中卒並の学力レベルという記事が掲載されていましたが、僕らの頃も僕を含めた一部の学生はそうであったと、自信?を持って言えますね、
 思い起こすと、中学生の頃は文芸春秋などの総合雑誌を読んでいたのに、英語も満点近い成績だったのに、高校に上がって一応文芸部に入ったから文芸誌をつくるために作品を発表しなくてはいけない、それで多少、小説を読み始める。
 しかし、大学に入ると小説さえ、総合雑誌どころか、まっとうな本さえ読まなかった。何故かE・H・フロムの『自由からの逃走』しか完読しなかった。何しているかと言うと、アルバイトとジャズ喫茶通い、街の徘徊で見知らぬ人?との出会いを楽しんでいたわけです。
 そう言えば、映画も見なかったですね、そりゃあ、そんな四年間なのでバカになりますよ。でも、中学、高校の頃は限りなく「コミュニケーション力」はゼロに近かったけれど、大学生活で、と言うよりは「本を捨てて街へ出よう」っていう寺山修司のノリですね、バカになったけれど、「コミュニケーション力」だけは多少つきました。そうそう、大学で二年間ほど、茶道部に入って江戸時代に建立された茶室で御点前の練習をしていました。ちょっぴり作法の学習をしたわけです。でも、バカ学生にはかわりがなかった。
 そんなんでも、就職が間近に迫ると、就職試験を受けざるを得ない。何とか今では超一流の商社に受験する機会をもらえました。でも、第一次は筆記試験です。当然、貿易商社だから英文読解です。それが、何にも書けないのです。英語に関しては間違いなく中学校時よりは学力がダウンしているのです。面接一本なら何のとか誤魔化せるのにと不遜なことを考えました。
 そうして、商社は滑り(当然)、当時では珍しい通販の会社に内定したのですが、何と就職するまでに倒産、それで、卒業ぎりぎりにヤングマンメーカーに就職が決まりました、本当は不採用だったのですが、不採用の理由を質すために社長に会いに行ったのです。社長は病弱で専務が応接してくれましたが、急遽、不採用取り消しとなり採用となったのです。でも、その会社もアイビーや、コンチのブームも去り、倒産しました。そんなこんやで、横浜に出版流通革命旗幟にしたチェーンの本屋が出来て、そこに新聞の求人広告をみて応募したのです。
 当時、横浜の新聞専売所に二食、泊まりの現物支給で朝刊の配達だけやっていたのです。お金は一円ももらわない、そのかわり、寝食の心配をしなくてよかったのです。と言っても6畳間に二段ベットを置いて大学生とオヤジと僕と三人で生活です。保土ヶ谷の坂道を自転車で配達しました。この新聞専売所では色々な人がやってきました。履歴書なんてちゃんとチェックしない、兎に角、つかの間寝食にありつけるわけですから、でもこの専売所も倒産しましたね、生家も倒産して倒産慣れしているから、本屋に就職した時、ここも後で倒産騒ぎになるのですが、会社規模がでかくなっていたし、小売業では珍しく会社更生法が適用され見事立ち直ったのです。でも、その頃は、僕はこの本屋さんを辞めていました。
 ◆去年の記事ですが、ある大学のゼミ生が大阪のジョブ・カフェ訪問記を先生のレポでブログアップしていますが、やはりここでも「コミュニケーション力」の重要さが問われている。
 もじれの日々で民間企業の採用に筆記試験を最大限重視せよという大学院生の記事をアップしていますが、一流企業、公務員を始め、研究者、技術者、医師、弁護士等等、筆記試験でまず選別されるところの受け皿は学力でしょう。そのことに関してはナットク出来ます。
 本屋事情しかわからないが、小売業でも受験戦争に勝ち抜いた国立系大学卒も珍しくない、今では中小企業でも筆記試験を重視するところが増えているのではないか、ちゃんとした統計がなく印象論ですが、民間企業の面接重視が本来の姿であろうと思う。バブル時、中小企業が外面でお勉強の出来る一流大学卒を採用した御大尽気分があったわけですよ、僕の居た本屋でも東大の院生はいました。1968年頃です。当時、本屋で大卒ですら珍しかった、本屋って小売業の中でもっとも安い賃金で、丁稚奉公からスタートが定番でした。
 創業者が岩波、東大コンプレックスのようなものがありましたから、業界の常識を逸脱して、まだ当時、女性の職場は開かれていなかったから、国立系、私大一流大学卒の女性達が沢山採用されましたね、優秀な人が多かったですよ、その中から国立系を卒業したTさんは本屋は変わったけれど今ではカリスマ書店員としてだけでなく、出版流通業界に時として痛い風を送り続けている、リスペクト出来る書店ウーマンに成りおうせている。身辺でそのような力を持っている人を思い遣ると、僕と違って教養がありました。でも、底に「コミュニケーション力」としか言い様がないものがありましたね。
 上に紹介した院生は大学に戻りました。彼は自ら「教養があってもコミュニケーション力がない、俺は大学に帰るよ」とそれが最後の台詞でした。真偽の程は明らかではありませんが、本人の言葉を信ずれば「丸山真男のゼミ生」だったのです。いかにも、1968年、69年ですね、最近、下のブログでも書いたように1969年、僕の居た本屋で寺山修司と喫茶店で長時間ミーティングしたテープを聴く機会があったのですが、ヨコハマの浪人生、大学生、工場の就職が内定している女子高校生たちと寺山さんが延々とコミュニケートしているのですが、凄く時代の臨場感がありました。喫茶店なので他のお客さんの会話も聞えるのです。ただ、残念なことには僕が喋った部分は名乗りだけで、全部編集段階でカットしていました。
 まさしく彼らは団塊の世代で1935年生まれの寺山さんは戦争の記憶がある。僕は1944年生まれですが、記憶がない、だから多分、団塊に近いのでしょうね、その辺の差異が若い人たちソネさんのカテゴライズ、【団塊→ポスト団塊→新人類とオタクの同時発生→団塊Jr→ポスト団塊jr(ニート?)】を強引に拝借すれば、ポスト団塊Jr以降の若者達が、結構寺山修司を評価している動きに何かを感知すべきかも知れない。「ネオ家出のススメ」か…。でもこれも積み木遊びの仮構であるではないかという恥じらいはちょっぴりあります。
 本田さん紹介の大学院生の記事は教養と就職試験とをリンクしようとしていますが、その熱い想いはわかるけれど、保坂和志さんの言葉、「働くことに思想はいらない」を贈ります。教養は教養のために学ぶのです。遊ぶために遊ぶ、そういうことです。